第4話

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第4話

 レザーの質感が冷たいソファは、大人二人が座れば狭いくらいだ。  土足の床に座るのも気が引けて、仕方なく猫耳青年の隣へ腰を落ち着かせる。  肩がぶつかりそうなくらい近い相手を意識して、身を固くしたままちらりと横を窺った。  すると青年は細い目を合わせて、またにこりと笑う。 「お兄さん、名前は?」 「え、っと、上原……透」  身を乗り出して問いかけてくるその風貌は、感心するほどきれいで、パーツのひつとである猫耳がよく似合っていた。  ふと見てみれば耳にかかる黒髪の下に、いくつかピアスをつけているのがわかる。  金色のアクセサリーは照明の光に反射して、一際黒に映えていた。 「透さん、今日はありがとうございます」  用意されたウーロン茶へ、ストローも使わずに口をつける。目を合わせられない代わりに、程近い白い首筋をじっと見つめた。 「きみの、名前は」 「俺?おれは猫だから、透さんが名前を決めていいんだよ」 「なに、それ」  相手の言っている言葉の意味を、俺は理解し損ねる。  人や動物に名前をつけるなんてことを、今までの人生でしたことがなかった。  しかもそれが、少し怪しい店の店員である青年相手にしなければならないのだから、なおさら脳内は混乱状態になる。 「そういうルールなんだ。ペットの名前は飼い主が決めるのと同じだよ」 「飼い主……?」  俺の方がおかしなことを言っている、とでもいうように青年は言った。 「そう。猫カフェっていっても、ここは一対一の対面形式だから、割り込みはなし。猫は主人の相手をする決まりで、ほとんど愚痴なんかを聞いてる」  始めてきた“猫カフェ”のルールを教え込めれて、俺は自分の中の常識を塗り替えられることになる。  世の中にはこういった変わり種の店があるのだと、驚きを隠せず唖然とした。 「猫っていっても“そっち”のネコじゃないよ。おさわり厳禁。“そういうこと”が目的の店じゃないんだ」  多少の知識だけはある風俗まがいなことを言われて、思わず反応した心臓が痛い。 「名前は、決めなきゃいけないのか?」 「そっちの方が、やり取りしやすいよ」  目をキラキラさせた青年は、何かを期待しているように待っている。  そんな相手を間近にしてしまえば、気の進まないことでも仕方なく応じてしまうのが人間のさがだ。 「じゃあ…………クロで」  ひとしきり悩んでから、間近にある黒い瞳を見て思ったことを口にする。 「それって俺が黒いから?」 「そう、だけど」  細い目が少しばかり大きく見開かれて、驚いたような表情を作った青年は一瞬黙る。  けれどそれもすぐに吹き出すような笑いで一掃された。 「透さんって素直で素敵な人だね、ますます気に入ったよ」  心底面白いとでもいうような笑い方をして、猫耳コスプレの青年“クロ”は、その無邪気な姿勢を崩さない。 「それより時間は一時間しかないんだから、何をする?仕事の愚痴とか聞くよ」 「……そういわれても」  思わず相手の話を鵜呑みにして言葉が出かけたが、俺はすぐにそれを飲み込んだ。  愚痴なんてものは、隠さずとも山ほどあった。  週の始まりから終わりまで、威張り散らす上司や、気の利かない後輩に怒りをぶちまけたいほどだ。  けれどそんなことを見ず知らずのコスプレ青年に、おいそれと話すことなどはばかれる。  余計な話はできないと、手に持ったままのグラスを無意味に口へ運んだ。 「そうだなぁ、じゃあ透さんの話をしない?」  クロは話す様子のない俺を見て、すぐさま話題を変える。 「俺の話?面白いことなんて、何もないけど」 「そうかなぁ?俺はすごく興味があるのに」  短い時間の間、俺はクロの猫耳が妙に気になって、ちらちらと盗み見ている。  全身黒一色の彼はまさに黒猫で、興味と言えばその黒耳の方が断然関心があった。  けれどそんなことを聞く勇気もない俺は、黙ってクロの隣に座っているしかできない。 「例えば、透さんの髪って綺麗だよね。染めてるの?」  触れるか触れないかというギリギリのところで、俺の髪を空気の上から撫でる。  昔から色素の薄い自前の髪は、今のように染めたのだと誤解されることが多い。  就活のときなんかは逆に黒くしなければならず、面倒な体質だと苦労したものだ。 「目は俺と違って二重なのが羨ましいし、背だってすごく高い」  特段自慢できることでもないのに、そんなことを言われるとむずがゆい。 普段人に誉められることもないから、なおさら気恥ずかしさは増した。 「透さんモテるでしょ」 「まさか、就職してから彼女なんていたことないよ」  俺のどこを見て、そんなことが言えるのか。 客を喜ばせるための接客術なのかと思いながら、最後にキスをしたのはいつだっけ、と余談なことを考えた。 「へぇ、そうなんだ」  こうして対面してみると、隣で悪意もなく笑いかけてくる相手がひどくかわいく思えてくる。  警戒心は少しばかり解けて、体の緊張はほぐれていく。  それほど彼は話のうまい人間だったし、人を惹き付ける女にはない魅力を持ち合わせていた。  しばらくして終了を知らせるタイマーが鳴ると、思いの外時間の流れを早く感じた。  店の外までクロは見送りに来て、名残惜しそうな態度で俺の腕を掴む。 「またきてね」  その一言はなぜかじんと胸の奥に残って、クロの深く濃い色をした瞳が頭から離れなくなる。  俺はろくな返事もせずに、また賑やかな繁華街を通って帰宅を急いだ。
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