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16.指先負傷事件―薬指の先がなくなる?
3時ごろに会議が終わり一休みしていたら、学校から電話が入った。久恵ちゃんが調理実習中にフードプロセッサーで指に怪我をしたという。病院に救急車で運んだが、手術の承認が必要なので、すぐに来てほしいとの連絡だった。
慌ててタクシーで病院へ駆けつける。途中、何本かの指を落としたのではとの不安がよぎる。そうなったら、可哀そうでかける言葉が思いつかない。
案内されて病院の処置室に入ると、右手に包帯を巻いた久恵ちゃんがうなだれて座っていた。
「大丈夫か?」と声をかけると「ごめんなさい」と泣きだした。そこへ主治医の女医さんが来て、怪我の状況を説明してくれた。
診断の結果、右手中指は第1関節の先の傷が5㎜程度の深さで縫うだけで済んだが、薬指第一関節の先の傷が深く、かろうじて指先がつながっているので、すぐに手術するとのことだった。
細い血管の縫合は難しいのでやってみないと分からないが、薬指1本の先がなくなる可能性もあると言われた。
承諾書に近親者として署名捺印した。もう、よろしくお願いしますと頼むしかなかった。
「大丈夫、気をしっかり持って」と励ましたが、久恵ちゃんは不安そうに手術室へ入って行った。
待合室に行くと、学校の先生が待っていた。怪我の診断結果を知らせると「申し訳ありません」と詫びるので「彼女の不注意です。こちらこそご迷惑をおかけしました」と詫びた。
実習中なので、治療費はすべて学校が加入している傷害保険でまかなえるとのことだった。もう自分が来たので、大丈夫だからと引き取ってもらった。
手術は2時間程かかった。順調に終わり1~2日で成功したか分かるとの説明を受けた。久恵ちゃんはもう病室へ運ばれていた。
この前、右肩を脱臼した時の整形外科の女医さんも若くて美人だったが、こちらの整形外科の女医さんも若くて美人なので、説明を聞きながら見とれた。「こんなときに不謹慎」と久恵ちゃんに叱られそう。
教えられた病室へ行くと、久恵ちゃんが窓の外を見ている。一人部屋だった。秋の夜の8時はすっかり暗くなっていて、ライトアップした橋が見えた。
「綺麗だね」
「うん。ごめんなさい」
怪我した時のことを話してくれた。考え事をしていて、指が何かに当ったと思ったら血が飛び散ったという。指が痛いので、指がフードプロセッサーの刃に触れたと分かった。
「キャー」と言うと、周りの人が気付いてくれて大騒ぎになった。指が血だらけで、痛くて痛くて、腰が抜けた。すぐに先生が救急車を呼んでくれて、この病院へ運ばれたという。
「結果は1、2日で分かるそうだ」
「先生から聞きました」
「指が壊死すればあきらめて」
「うん、私の不注意だから」
「実習中は集中しないとだめ」
「分かっている」
「心配事があるのなら、相談にのるよ」
「大丈夫です」
久恵ちゃんはそのことについては何も話さなかった。
「きれいな女医さんだったね」
話をそらすと、やはり叱られた。
「こういうときに不謹慎でしょ!」
「ごめん。そういう意味では」
「どういう意味?」
何故かこういう時でも絡んでくる。僕が黙っているとそれに気が付いたみたい。元の久恵ちゃんに戻った。
「1週間は入院しなければならないので、着替えを持って来てもらえませんか?」
「いいけど、下着だよね」
「うん。プラケースの中、適当に2~3枚ずつ、見れば分かるから」
「いいのかい」
「仕方ないでしょ」
「分かった。あすの朝、出勤途中に寄るから」
「お願いします」
「何かほしいものある?」
「喉が渇いているのでジュースが飲みたい」
「すぐに売店で2、3本買ってくるよ」
売店はもう閉まっていた。自動販売機でジュースを3本仕入れた。部屋に戻ると、久恵ちゃんがもじもじしている。
「どうかした?」
「トイレに行きたい」
「すぐに看護婦さんを呼んでくる。いや、そこのコールボタンを押せばいい」
「待てない。出ちゃう! 怪我した時からずっとトイレに行ってないの。すぐにつれてって」
「ええ!」
右腕は包帯で胸の前に固定されて、左腕には点滴の管が支柱にまでつながっている。「大丈夫かい」と言いながら、部屋の入口にあるトイレまで付き添って中へ導く。久恵ちゃんの顔が引きつっているのが分かるので、すぐに出ようとする。
「下着を下して早く」
「えええ!」
「でも、見ないで!」
後ろを向かせてそっと下すと腰かけようとするので慌てて外へで出る。
水を流す音が聞こえる。しばらくして、中から声がする。
「下着を上げて」
「は、はい」
久恵ちゃんは後ろを向いて立っていた。目を伏せて下着とパジャマを上げた。でも可愛いお尻が見えた。それから、また付き添ってベッドへ導く。
「今度から早めに看護婦さんに頼むように」
言い残して慌てて病室を出た。
帰宅したら疲れがどっとでた。事故に動転して駆けつけて、手術中は緊張して、最後のドタバタがとどめ、もう疲れたー!
それから毎日、朝の出勤時と仕事を終えてからも病室に顔を出した。経過は良好で日に日に久恵ちゃんは元気を取り戻していった。
それから1週間後、下着の替えがなくなるころに久恵ちゃんは退院した。幸いにも縫合部分の壊死もなく、指はつながった。
そのあと2週間ほど自宅療養した。今回の怪我は戸惑うことばかりだった。男親では手に負えないことが盛りだくさんあった。
洗濯は僕がしていたが、久恵ちゃんからは下着の洗濯を頼まれなかった。下着は自分で洗っていたみたいだった。
朝食の準備と後片付けは僕がした。一人でいたときは全部自分でしていたので特に問題はない。2人分作るだけだ。その分出勤時間は遅くなったが、それでもいつもは早く出すぎているので問題なかった。
昼食はいろいろな種類の冷凍食品を買ってきて、電子レンジでチンして食べてもらった。夕食は僕が美味しそうなお弁当を買って帰った。
お風呂は怪我したほうの手をビニール袋で覆って入っていた。退院したばかりのころは、僕が目をつむって、着ているものを脱がしてあげたり、湯上りの身体を拭いてあげたり、それからパジャマを着せてあげたりしていたから、とても時間がかかった。
ただ、前にいるときは目をつむっていたけど、後ろ回ったときはしっかり後姿を見ていた。綺麗な背中と可愛いお尻が忘れられない。
怪我の回復は若いのでとても早かった。これは救いであった。再び学校へ行く朝、僕の所へ来た。
「パパ、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさない。親身になってくれてありがとう」
「今回は退院後の世話を十分してあげられなくて悪かったね。久恵ちゃんのママが生きていてくれたらと、女の子には母親が必要なことを痛感した」
「いえ、十分にお世話してもらったから、そんなことはありません」
「父親がどんなに愛情を注いでも、母親にはかなわない。母親の子供への愛情は父親の愛情とはかなり異質のような気がする」
「私は、物心がついた時から父親がいなかったので、比較できないけど、ママは私を命がけで育ててくれた。母親の愛って本当に一方的ですごいものだと思います」
「母親の子供への愛情って、お腹の中で芽生えて、育み、苦しんで生んだ、という実感からきていて本能的なものじゃないかな。父親の子供への愛情は、実感が伴わなくて、目で見ての愛おしさや責任感から来ていると思う。妊娠して生んだ母親と射精しただけの父親では根本的に感じ方が違って当然だと思う。母親は間違いなく自分の子供と認識できるが、父親は実感がないので本当に自分の子か確信できないのではないかな。それが、懐いてきたり、顔が似てきたりすると少しずつ実感できるようになるのだと思う」
「ひとつ聞いていい? 男女間では一方的な愛情ってありえるの?」
何で今そういうことを聞くのかな?
「片思いがあるけど、片思いはあこがれのような思いであって愛情とは異なるのではないのかな。一方的に愛して尽くすという見返りのない愛情はいずれ破たんすると思う。なぜなら、思いが高まって行かないから」
「片思いはなかなかうまくいかないというからそうかもしれない」
「そうは言っても、男女間では一方が好きになると、それに応えるように相手も好きになっていくのではないかな。好意を持ってくれる人に好意を持つというのは、極く自然のことだから。相手を愛さなければ、相手も愛してくれない。好いて好かれてお互いに高めあっていくのが男女間の愛情だと思う」
「好意を感じるとますます好きになる。分かる気がする」
「愛情とは少し違うけど、信頼関係も正に相互の信頼から成り立つ。信頼するから信頼される。職場でも部下を信頼しない上司は部下からも信頼されない。一方的な信頼関係というものは成り立たないし、ありえないと思う。でもどちらかから、信頼していることを表さないと信頼関係は築けないし進展しない。これは男女間の愛情と同じだと思う」
「パパの持論ね。いい話ありがとう。とっても参考になった」
「また、考え事していてはだめだよ」
久恵ちゃんは怪我の原因になった考え事についてはやっぱり話してくれなかった。まさか、自分が原因とは思いもしなかった。
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