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それは、あの女が社の戸に体を叩きつける音だった。
社が揺れるほどの衝撃とともに、べちょべちょと嫌な水音が聞こえてくる。たとえ外の様子が見えずとも、蜘蛛の胴体が潰れて体液が噴き出しているのだとわかった。
嫌悪感と恐怖に身を縮こまらせるつぐみを背中に庇い、あとりが音のする方角を睨みつける。音は絶え間なく鳴り響き、やがて鼻にかかった濁声が聞こえてきた。
”か エ してよゥ”
それはあの女のものだったが、甘ったるい声は今や潰れ、耳障りな不協和音を奏でていた。うめき声とも懇願ともつかない言葉を発し、女はぐちゃぐちゃになった体を戸に叩きつけてすがりつく。
” カ えしてよゥ アタシ の えさ ”
女はすすり泣いているようだった。物悲しげに響く嗚咽に、しかしこみあげてくるのは憐憫ではなく嫌悪だ。聞く者を不快にさせるような大袈裟なまでの泣き声は、あの泣き女なんかよりずっと疎ましい。脳を揺さぶられるような嫌な感覚に、つぐみは耳を塞いでひたすら耐え忍ぶ。
幸いなのは、子乞様に女の言葉に応える意思がないようだということだった。それを知らしめるように、頭上からは獣の唸り声のようなものがひっきりなしに鳴り響いている。子乞様が威嚇しているのだとつぐみは思った。
”ね~え。 ねエ、ね エ ね~ ね え~ ね~ え ”
女の懇願は続く。喘鳴混じりの強請りとともに戸をカリカリと引っ掻く音が酷く恐ろしくて、このままだと頭がおかしくなってしまいそうだった。
しかしその不快音は、短い悲鳴を最期に唐突に途絶えた。
つぐみはあとりと顔を見合わせ、音の消えた方角を見やる。やつはどうなったのだろうか。こちらを油断させて誘い込むつもりなのだろうか。疑心暗鬼に陥った二人は息を殺して、重苦しい沈黙をただただ味わっていた。
そして長い長い静寂に気が狂いそうになってきたころ、少年の囁きが耳に届く。
「子乞様」
いや、我らが”セキリュウ様”。幽灯の声はそう囁きかけて、恭しく告げる。
「貴女のややこを操っていた端女は、私が始末いたしました。どうか彼らをお返しください」
幽灯の言葉に反応して蛇の尾が蠢く。しかしそれはほどかれず、むしろよりつぐみ達に迫っていた。
頭上から聞こえてきたクルクルという甘えた声に、まさか子乞様は自分達を手放すつもりがないのではと一抹の不安がよぎる。だが、幽灯の声は容赦なく子乞様の執着を咎めた。
「なりません、セキリュウ様。その子供達には、まだ愛してくれる親が居るのです」
再び静寂が訪れ、つぐみとあとりは固唾を呑む。
祈るような気持ちで子乞様の反応を待ちわびていると、やがて尾が大きく震え。
そして、ゆっくりと周囲から離れていった。
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