一章 - 「手と骨」の行方

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 志穂は髪の毛をモチーフにして制作するアーティストだった。小さい頃は家に落ちている髪の毛を拾って集めるのが好きだったし、人の髪の毛に触れるのも好きだった。紙に鉛筆で線を引いたのをきっかけに、髪の毛ばかりを描き始めた。  一浪して入った大学では絵画科に進み、油絵で髪の毛を描いた。髪の毛は生きているのか死んでいるのか。髪の毛は志穂にとって、朽ちることのない人の存在そのものだった。  つややかで手触りの良い髪の毛よりも、色褪せて散らかったような髪の毛が志穂は好きだった。町中でそういう髪の毛に出会ってしまうと、無意識のうちに手を伸ばして触ろうとする癖があった。そういう時の志穂はどこか憑りつかれたような目をしていて、突然触れられた相手は悲鳴を上げて足早に逃げていった。  志穂が今の恋人、真山と付き合い始めたのも髪の毛が好みだったからだ。真山の「手と骨」は七年前にイタリアで賞を獲っていたはずだ。作品自体は見たことがないが、タイトルだけは覚えている。 「あの、アルコさん」 「なにー?」 「その、亡くなった方っていつ頃亡くなったんですか?」 「餓死した子?」  アルコの言い方は直接的だ。志穂はうなずき返す。 「うーん、七年くらい前じゃないかな、確か」  少し間を置いてから志穂はさらに聞く。 「その方、お名前は?」 「ソヨンだよ、キムソヨン。なに? なんか気になる?」 「いえ、なんか、あの、タイトルが気になって。ちょっと作品見てみたいなぁって」 「ふーん、じゃさー、ギャラリーアサクラで検索かけてみるといいよ。さっき言った日本人のギャラリーがそこだから。作品も出てるんじゃないかな」    買い物から戻った後、志穂はすぐにパソコンを開き、ギャラリーアサクラを調べた。日本人と韓国人のアーティストのほかに、海外のアーティストを数人扱っている。ギャラリーはソウルと東京にあるようだ。  ソヨンの作品は自らの体に文字を書いたモノクロのフォトワークだった。古代人が動物の骨に文字を遺したように、彼女は自らの身体に言葉を刻む。それは時に誹謗中傷であったり、小説の一節であったり。全身に文字を描いて定まらない視線を漂わせている彼女。切れ長の細い目に足先まで届きそうなほどの長い髪。髪は時に繭のように彼女を包みこんでいる。写真を辿っていると、背中や腹部に日本語が書かれたものがあった。自分の身体にこれだけ正確に文字を書くなんてできない。彼女の作品には協力者がいる。それもかなり親密な関係だろう。  志穂は日本語で書かれた部分を注意深く観察した。 「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」  この台詞は、芥川龍之介の羅生門にあったものだ。貧しくても悪さをする読経までは持ち合わせていなかった下人が、死人から髪を抜き取っている老婆を見て、自ら悪事を働くような話だった。  志穂はあまり小説を読むタイプではなかった。すぐにそれと気づいたのは、彼氏の真山俊介が好きな作品で、よく話を聞いていたからだ。  日本語ページに、ソヨンのプロフィールが書かれていた。 自らを「言葉を記録する骨」とし、記録媒体としての身体を表す。
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