プロローグ

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プロローグ

今朝は、雨の匂いで目が覚めた。 半目の薄ぼけた視界で時計を見ると、あと3分で目覚ましが鳴る時間だった。 入ったばかりの新卒の会社で働き始めて早1年、何も出来なかった自分と闘うことを乗り越えて、ようやく誰かのために仕事を考えられるようになってから、ボロボロだった生活習慣が自然と整ってきて、アラームがなくても自然と起きられるようになってきた。身体と頭が急に味方になってくれたみたいだ。 寒さでこわばった起きがけの筋肉は、身体を起こすことをなかなか許してはくれない。こいつと上手に付き合っていく術を20年以上かけてゆっくり学んできた成果として、温かい布団から辛うじて右手を突き出し、枕元のラックに置いておいたvolvicの軟水を手に取る。 片手でキャップを開けて、横向きになりながら水を口に含む。今度は仰向けになって、口に含んだ水のかたまりをゆっくりと飲み込む。味はしないはずだけど、ほのかな甘味が消化管を通過する。昨夜中華料理屋で食べた餃子の匂いが薄まっていくのを感じると、昨日という日が終わって、今日が始まったんだなという実感が湧き上がってくる。やはり潤いは味方だ。 「ぁあ…あー!あーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!起きるぞ!!!!!!!俺は!!!!!!!!起きる!」 わざとらしく大声を出すと、身体はようやく息を吹き返し、僕の全身に響き渡る「立て!」という指令を素直に受け取ってくれた。留学生の隣人、早朝に大声を出して申し訳ない。これで日本経済の一部が回っているのだ。許せ。 そして勢いよくカーテンを開けると、僕の鼻の勘が当たっていることに気づいた。 すでにいくつかの雨粒が、窓を駆け抜けた痕跡がある。窓の表面には細かい水滴が粘り強くとどまり、そんな辛抱強い水滴を分け入るようにして、流線形の雨がうねりながら窓を駆け落ちていく。南向きなのに隣家との距離が近くて、ほとんど外界の光があたらない我が家の窓の水滴は、なんの景色も透かすことなく、純粋な雨だったものとしての姿を見せていた。 僕はいつの間にか、その窓の中心にある、いくつかの水滴たちを見つめていた。いずれも小さくて、垂直な窓の表面に止まっていられることが不思議だけど、彼らは望んで小さくなっているような気がした。寒くて厳しい外の世界より自分の内側に安定があるよう信じて、小さく纏まっているように思えた。 雨の音が、徐々に大きくなっていく。 先程から見ていた水滴たちの上に、一つの大きな雨粒が現れた。重さに耐えられず、素早く流線形を描いて滑り落ちる。 「ーーーあ」 滑り落ちた軌跡が僕の水滴たちに当たると同時に、小さい彼らは姿を消した。いや、姿を消したのではない、自分より大きな水滴と一緒になれたのだ。最早彼らに、小さく縮こまるようなまねは、必要なくなったのだ。 そう思って、僕は喜びとも悲しみともつかない、1番簡単な声を漏らした。 流線は徐々に細くなって、また新しい水滴をいくつも残していった。僕がさっき見ていた水滴たちとはおそらく違う水滴が、新しい形で窓に止まっている。 アラームが鳴った。昨日の僕が起きるはずだった時間になって、僕は窓に別れを告げて、昨日のように身支度を始めた。 今夜は久しぶりにクラブに行くので、もしかしたら終電を逃してしまうかもしれない。そう思って、鞄に下着を詰め込んだ。 0819fb8a-3777-4ac4-9896-7d82f78b05c5
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