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 黒い瞳が私を見下ろしていた。表情は能面のように平坦で、ピンク色の唇は真一文字に結ばれている。  私の、世界でたった一人の、大切な人間。青島涼は空になった水筒を片手に、今朝の天気でも聞くような気軽さで「気分はどうだい」と私に尋ねた。  顔を上げようとして、首が体と離れていることに気がつく。昨夜、薬が体に流れていかないように、慌てて切り離したのだったか。とうに痛覚を失くしたとはいえ、自傷行為にはあまり慣れたくないなと思う。  両腕で地面を這い、自分の頭を拾い上げると、首の断面が重なるように頭と体をくっつける。虫が這うような錯覚と共に、自然と断面が癒合した。 「いやあ、流石に本気で死ぬかと思った!」  意識して表情を大きく動かし、大袈裟なほどにけらけらと喉を鳴らして笑う。最愛の親友は相変わらず平坦な表情で、安心したように小さく吐息を漏らした。 「馬鹿だなマリー、あんな錠剤ぐらいで」  世界で唯一ゾンビウイルスに感染しない、特別な少女から作られた薬は、私の想像を超えて凶悪だった。  舌に触れて僅かに錠剤が溶けた途端、私を形作る自我がほどけて消えるのだと思った。あのとき我武者羅に頭を引き千切っていなければ、私は今も目を覚まさなかったかもしれない。  涼を世界に取り残していたかもしれない。そう思うと、長い間忘れかけていた恐怖心が背筋を這い上がっていった。とうの昔に死んだくせに。死して尚続いていく意識に絶望して、消えたい、終わりたいと願い続けていたくせに。 「なんだよリョー、心配したのか?」  努めて軽く笑い飛ばすと、涼は呆れたように首を横に振った。 「心配なんかしてない。ただ少し驚いただけだよ。……ほら」  何でもないというように、涼は地面に落ちたスプーンを拾って食べかけのスープをすくうと、私の口元に近づける。具材がどろどろに溶け込んだ、粘ついたスープだ。  私に食事は必要ないが、そんなことは関係ない。 「美味いっ」  冷めたスープを舌で転がすと、涼は淡々と「そうかい」と答えた。  味覚は無いも同然だ。わかるのは食感と舌触り。スープが冷えてしまったことと、これを涼が作ってくれたということだけ。美味いに決まっていた。  世界にはゾンビウイルスが蔓延し、生き延びているのは僅かな人々だけ。高い壁に囲われた街を築き、少女から作り出した青い錠剤に縋って、明日の希望さえなく、ただ無意味に生きている。  私はゾンビで、涼は人間だった。死んだくせに自我を保っている変わり者の動く死体と、人間なのにゾンビに感染しない世界でたった一人の特別な少女。私たちは、きっと世界で最後の二人だ。  スプーンがフライパンと私の口を何度か往復し、スープが空になる。涼はその合間に、ポケットから取り出したビスケットを齧っていた。 「次はラーメンかパスタを買おうと思うんだ」 「嵩張るからって買わなかったのはリョーだろ?」 「うん、だけどビスケットは味気ないから」  小さな口に焼いた小麦の欠片を押し込んで、涼は軽く両手を払った。フライパンを乾いた砂で洗い、布で拭き取ると、バックパックに簡易コンロと一緒にしまっていく。  荷物を持つのは涼の役目だ。私には必要ないものだし、乱暴に扱って壊れると困るから。  私の仕事は道中を楽しい話題で賑やかすこと。そして、私以外のゾンビと数多の悪意から涼を守り抜くことだ。 「次の街には人間がいないといいな」 「それは困るだろ……。人がいないと、誰が物を生産するんだ」 「そりゃ機械とか」 「誰が機械を動かすんだよ」 「あーえっと、あたし?……か、リョーちゃん?」 「…………もう行くぞ」  バックパックを背負って歩き出した涼を、慌てて追いかける。世界にはゾンビが蔓延しているけれど、意外と道中は平和的だ。奴らは街や集落に固まって存在する。街と街を結ぶ線には、時たまはぐれゾンビがいる程度だ。  だから、今日も快晴、辺りには呑気で平穏な空気が広がっている。
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