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 マリーの頭髪が地面に広がった。絹糸のようだった彼女の髪は汚泥に塗れ、今ではもう見る影もない。  痩せ細り骨の浮いた頬に手で触れてみる。干からびた肌は冷たく、生命の温もりは感じられなかった。  ……当たり前だ。マリーは既に死んでいる。  僕は彼女の両頬を片手で挟むように掴み、持ち上げた。胴体と首は繋がっていないから軽いと思ったのだけど、想像より重量感があり、左手で乱れた頭部を支える。 「ね、マリー」  瞼が不自然にめくれ上がり、剥き出しになった眼球は、空の青さを写し込んだみたいに澄んだ色をしていた。相変わらず、瞳だけはぎらぎらして、綺麗で、羨ましい。 「マリー、起きろよ、もう朝だ」  返事はない、反応も返さない。狂人にでもなった気分だ。普通、死体は朝が来たからって目覚めないし、首が千切れた生首に声を出す機能が備わっているとも思えない。 「はあ……」  何だか虚しくなって、僕はマリーの頭部を地面に置いた。代わりにバックパックを拾い、中から簡易コンロとフライパンを取り出す。 「君が起きないなら先に朝食を作ろう。朝ご飯は大事だから」  水筒型の魔法瓶には沸騰したお湯が入っている。バックパックのサイドのジッパーを開くと、粉末スープの素と小型のパウチに入ったたれがいくつか現れる。  フライパンにお湯を張り、粉末スープを入れて金属のスプーンで混ぜながら、バックパックから缶詰(海産物B)を取り出した。 「ビスケットには合わないんだよね……」  今度また自販機を見つけたら、米か麺を買うことにしよう。そう誓って、火にかけたフライパンに缶詰の中身を入れる。四角い、ぶよぶよとした、弾力のあるゼリー状の物体がスープに広がり、食欲をそそる香りが辺りに漂った。  掻き混ぜると粘り気が出るので、暫くこのまま様子を見る。具材の角が取れれば完成だ。 「マリー、おい、いい加減に起きろ。食べたらすぐに移動するんだ。君を置いてでも行くからな、僕は」  死体の腕をブーツの爪先でつつき、動かない胴体に踵を乗せる。体重をかけて踏み抜けば起きるだろうか。 「ああ、もう……。わかったよ、先に食べるから寝てろ」  フライパンをコンロからおろして、ぶよぶよの具材をスプーンですくう。湯気が立つスープに息を吹きかけて冷まし、一口。口内に広がる海産物の旨味などはなく、粘ついた熱いものが喉を流れていく。  食事だ。例え美味しくても、味のことは考えない。腐った死体の側で食べれば、どんなものだって不味く感じるに決まっている。胃が満たされて、体が温まるなら、それで十分だ。  しかし、流石に、そろそろ、何かがおかしいような気がしてくる。いくらマリーがマイペースだからといって、寝言の一つも「あと五分」の一言も漏らさずに眠りっぱなしというのは不自然じゃないだろうか。  微動だにせず、まるで本当の死体のように一つも反応を返さない。おかしい。喧しいことだけが取り柄のような女のくせに。食べられもしない朝食を寄越せとせびることもない。 「マリー?」  マリーの肩を揺する。千切れた頭が横に傾く。開かれた瞳には何も写っていない。死んでいる。知ってる。乾いた頬に触れて、青白い唇に指を押し付け、むりやり口を開いてみた。ぎざぎざの白い牙は一本も欠けていない。舌は喉の奥に落ち込んでいる。普通なら窒息を疑うが、どうせ喉は千切れているしマリーは全く普通じゃない。指でどうにか舌を掴んで引っ張ると、見えた舌は不自然に青く粘ついていた。  ここで僕は昨夜の会話を思い出す。 『抗ゾンビ薬ってゾンビが飲んだらどうなるんだろうな』『さあ、死ぬか何も起きないか。現実的な話ではないと思うけど』『気になる?』『まあ』『あたしは気になる、すっげ気になる』『ゾンビでも捕まえてくるかい?』『おいおい、冗談言うなよリョーちゃん、ゾンビなんか……なあ?』『うん、まあ、そうだね、そうかもしれない』『よしっ』  何がよしなのか。僕らは揃って青色の錠剤を飲んだ。僕にもマリーにも必要がない薬だ。人間はこの薬を飲むと、ゾンビにならずに済むらしい。 「………………馬鹿だな」  本当にバカだ。僕たちが死ぬときは好奇心を失ったときか、あるいは天敵が現れたときだけだと思っていたけれど、まさか好奇心そのものにマリーが殺されるなんて。  僕はマリーの舌から指を離し、お湯の入った魔法瓶を手にとった。まだまだ中身は残っている。僕が触ると火傷するので、跳ねたお湯が当たらないように気をつけて、熱々のお湯でマリーの口内を洗浄する。  変色したお湯がマリーの喉の断面から流れ出て、水溜りを作った。胴体には触れないように遠ざけて、ついでに汚れた髪にもお湯をかけて流してやる。 「きれいな髪してるんだから、手入れすればいいのに」  白銀の髪は湯気の中で水溜りを泳ぎ、見る間に美しさを取り戻していった。乾いた頬にも張りが戻る。青色の眼球の中で、針先のようだった瞳孔が膨らんで丸くなり、空の青さを写し込んだ。  瞼が微かに動く。フリーズドライのスープみたいでなんだか少し面白い。 「やぁマリー、朝の気分はどうだい?」  血色の悪い頬が釣り上がり、僕の大事な友人は、尖った犬歯をむき出しにして笑った。
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