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目の前に突き付けられた糸を優しく掴む。痛みはない。傷もできない。ピアノ線のように鋭かった糸は、今は絹糸のように柔らかくなっていた。
「渚さん。渚さんのその痛みは私にはわからないかもしれない。他の人にも誰にもわからないかもしれない。でも、それでも、聴くことはできる、触れることはできる。音を。渚さんの音に耳を澄ませることはできる」
糸に手を触れたまま、美歌は片手で鍵盤を揺らした。流麗な旋律が魔法を導き出す。複雑に絡み合った心を解く魔法を。
「痛みの中身がわからなくても、痛みがあることはわかるんです。だから私は音を奏でます。それがきっと、アイドルだから」
目を閉じて、その音に集中する。燃える夕陽のように綺麗過ぎる紅い糸。その糸にがんじがらめに縛り付けられた震える音に届くようにと、ただ柔らかく鍵盤を鳴らす。
夕陽。それは夕陽だ。窓から射し込む夕陽に照らされて、蛹から蝶が生まれ出でる。夕陽のような赤い紅い蝶が。
「あれは……太、陽?」
瑠那の声が震えていた。声だけじゃない。強く握り締めなければ杖を落としそうになるほど全身が震えていた。片手だけの演奏だというのに、体の震えが止まらない。
太陽、というにはあまりにも小さくあまりにも弱々しい光だった。それでも、その火は真っ暗だった部屋中を照らし出す。群れる蟲も繭も、力無く漂う糸も。
「あれは……?」
部屋の隅にひっそりと置かれた小さな机。表面は刃物のようなものでズタズタに傷つけられた茶色の机の上に鎮座しているものを見つけて、すずは駆け出した。
「ダメ」
繭の中から囁き声が聞こえ、分厚い糸の束がすずの行く手を遮る。唯一覚えた火の矢が糸を突き抜けて道をつくった。
「ダメ!」
再び目の前に現れる糸の盾。今度は複数の矢を放ち、盾を打ち破った。
「ダメェェェエエエ!!!」
慟哭がハッキリと聴こえた。見れば渚の身体を覆っていた繭が解かれ、全ての糸がすずの前に集結していた。拒絶するように聳え立つ糸の壁が形成される前に垣間見えたのは、確かな紅い光。
「渚。紅い糸を吐く蟲なんていないよね」
答えを聞く必要はなかった。聞かなくてももうわかっている。魔法と矢とでこじ開けた穴の先には、いつも身につけていたものと同じ赤いピアスが置かれていた。
「蟲が依代なんて嘘。本当の依代は、そのピアス。あのとき私にくれた約束のピアス」
温かな光がすずの顔を照らした。傍らに寄り添うようなどこか淋しいメロディが涙を誘った。
「嘘つき」
絞り出された言葉は儚く、柔らかく。放たれたそばから空気に霧散していく。にも関わらずその意味は、消えることなく薄れることなく示された目標へと向かっていく。美歌の奏でる音に乗せて。
「違う……」
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