雨鳴りの石

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雨鳴りの石

 ある嵐の夜だった。  画家を目指す若い男が、富士の麓にある東屋でじぃっと空を仰いでいた。  ざあざあと降る雨が飛沫をあげて、男の頬を叩く。だが男はちっともそれを気にせず、一点を見つめ続けている。  ぱっ、と。一瞬、空が白に染まる。それから息を二回継いだあたりで、耳をつんざくような雷鳴が轟いた。猛り狂う音の波が、東屋とキャンバスを支えるイーゼルを襲う。男はカタカタと揺れるキャンバスをとっさに抱きかかえ、落雷の衝撃が収まるのを待った。  ――ふと。男の耳に雨粒が地を叩く音とは違う〝なにか〟がやってきた。  かすかに。しかし明らかに異質な〟なにか〝。  ぴちゃ。ぴちゃ。と、素足で水を踏むような音が近付いてくる。  豪雨に紛れ、ぬっと現れたそれは、一見、人の形をしていた。濡羽色の合羽を羽織り、フードを深々と被っている。だが人と見まごう姿をしていても、露出している口元と鼻先が人ならざる者であることを証明していた。  琥珀色に輝く瞳、薄膜状の水かきのある手足、皮膚を覆う無数の青い鱗。  その鱗は光沢があり、とても綺麗だった。まるでサファイアのようだ。薄い粘膜を帯びていて、青白い光をほのかに放っていた。  その時。一層強い風が彼らの間を吹き抜け、東屋の中心に置かれたランタンの灯りが風に煽られて激しく揺れる。荒れ狂う炎が青い怪物の口元を一瞬だけ明るく照らした。暗がりでは分からなかった憎しみめいた感情が、そこにはあった。しかし男はそれに気付かない。 「絵描きか。嵐の夜だというのに酔狂だな」  青い怪物が奇しくも人の言葉を話した。だが男は動じなかった。なぜなら別の事柄に男は心を囚われていたからだ。  ――それは怪物の異様な美しさだった。  絵描きには、絵にしたら素晴らしいものになるという直感めいた情動に振り回される瞬間がある。その情動には魔が棲んでいて、人によってはそれに一生涯取り憑かれ、人生の一切合切を捨ててしまう者もいるという。魔に呑み込まれてしまった者達はすべからく、口惜しい思いを抱いたまま尽き果ててしまうらしい。 〝どうしても絵にしたい〟  雨風吹き荒れる夜長。男が初めてそのような情動に取り憑かれた瞬間だった。  男は青い怪物の足元をちらりと見やり、一つの提案を持ちかけた。 「……ひどい傷だ。手当てして差し上げましょうか」  青い怪物の左脚からは真っ赤な血がとめどなく溢れ出していた。 「なにが狙いだ」  針で突き刺すような声が飛んだ。男は青い怪物がまとった感情など意に介さず、怪物に一歩近づく。 「貴方の絵を描かせて欲しい」  両者の間にあるのは、中央に置かれた丸い机と仄暗い闇。空間的な隔たりはなくとも、それは明らかに両者の壁として存在していた。 「貴方がどこの誰であろうと構わない。たとえ、この世ならざるものだろうとも」  男は平然と机の反対側へと回り込み、青い怪物の前に立つ。 「私の願いに対し、貴方になんの道理もないことは承知の上です」  男は膝を折り、両の手を木の床に付ける。それから額を床にこすりつけ、情の極まった声を上げた。 「私はかねてより、人の心を打つ絵を創り出したいと日々研鑽を重ねて参りました。……しかしそれは今も実っておりません。それもひとえに、私自身の心を打つ情景や人物に出逢ってこなかったからなのです。虚栄心と自惚れだけで夢を繋いできた私の精神は擦り切れる寸前」  そこで男は顔を上げた。その形相たるや、断固としか言葉にできない。青い怪物のまとっていた感情にほつれが生じる。 「そこに貴方が現れた。⋯⋯どうか。どうか私に貴方の絵を描かせてほしい。私はこれまで何百、何千もの絵の具を浪費し続けてきた。それでも見出せなかった。そんな私が生まれて初めて成し遂げたいと思えたのです。どうか。どうかお願いいたします。私に貴方の絵を」 「もういい。わかったから立て。どうにも調子が狂う。気分が悪い」  青い怪物は男の言葉を遮り、バツが悪そうに灰色の空へと視線を向けた。  ――この男の欲は、性根の腐った人間どもとはまた別の類。そこに種の境などない。他者を喰いものとし、私服を肥やすような醜い欲ではなく、己が生きる意味を探し求める清らかな欲。  戯れに相手をするのも悪くないか。この怪我にもいい加減うんざりしていたところだ。  東屋には腰の高さまで設けられた壁を伝って、ぐるりと一本の椅子が設けられている。  青い怪物はそこへ腰を下ろした。  おもむろに左脚を持ち上げ、踵を椅子の縁に乗せる。それから、どこか憂い帯びた眼差しで傷口をなぞった。 「いいだろう。お前の願いを聞いてやる。ただし夜明けまでだ。空が白むと同時に、私はここを発つ」 「ほんとですか!?」 「くどいぞ。さっさとこの出血を止めてくれ」  男は跳ねるように飛び起き、イーゼルの足元に置かれた革の手提げカバンを漁り始めた。てきぱきと包帯やら消毒液やらを中から取り出し、床に置いていく。 「その隣のはなんだ」 「ああ、こっちのは画材収納用のリュックサックです。絵を描くのに必要な油とか絵の具とか筆とか……そういうのが入ってます」 「さらにその隣のは?」 「これはキャンバスケースです。この天候ですから。何かあった時の予備として持ってきました。あと他の絵を描きたくなることもありますし」  男はちらと青い怪物を横目で見やった。すぐに視線を戻し、カバンの中を再び漁り始める。 「そうか」 「ええ」  手当てするのに必要な道具の一つが見当たらないのか、男は手を動かすのをやめない。青い怪物は彼の手が動きを止めるのをただ黙って見ていた。  男も青い怪物に話しかけるような素振りは見せなかった。ただ一心にカバンの中を漁るのみ。  青い怪物は今更ながらに思った。人ならざる者と出くわし、同じ空間に共存し、会話を交わしている。このような状況は滅多にあることじゃない。  ――この男はわたしが怖くないのか?  そう思ってしまったら、一度聞いてみないと気が済まなかった。 「お前はわたし以外の、人ではない種族に会ったことがあるか?」 「いえ……ないですね。貴方が初めてです」 「そうか」 「ええ」  やはりこの男にあるのは、絵に対する執着のみ。人ならざる者と遭遇してもなお、勝るのは絵描きとしての生き様。同胞から聞いていた人間の特徴とはかけ離れていると青い怪物は思った。 「すみません。お待たせしました。ガーゼがなかなか見つからず手間取りまして」 「別に構わない。ほら、さっさとしてくれ」  怪物は顎で左脚を指した。男は小さくうなずき、応急手当の道具を一式抱えて怪物の前までやってくる。それから床に膝を立てて、脇に道具一式を置いた。 「痛むかもしれませんが、我慢してください」  男は消毒液を垂らしたガーゼを手に取り、血まみれの左脚をなぞった。怪物がかすかに顔を歪める。 「すみません。痛かったですか?」 「気にするな。続けてくれ」    応急処置は滞りなく終わった。  しかし傷口は縫わなければならないほどに大きく、脚に巻いた包帯は血で滲んで真っ赤だった。  絵描きである男が有効な止血の方法など知るよしもなく、これが彼に出来る最大限の処置であった。 「すみません。これでは応急処置になったかどうか……」 「いい。風で巻き上げられた砂粒が傷口に飛び込んでこなくなった。さあ、次はお前の番だ。夜明けまで気が済むまで絵を描くと良い」 「ありがとうございます」  男は一言礼を言うと、イーゼルに載っていた描きかけのキャンバスを両手で抱え、東屋の壁に立てかける。 「濡れるぞ」  青い怪物が言葉を発している合間にも、嵐の中で佇む富士へと水が降りかかる。東屋の外から絶えず入り込んでくる雨だ。 「ああ。いいんです。その絵も結局は虚栄心で描いたものですから。何物にもなれない空っぽの作品です」  男はキャンバスケースを手に取り、留め具を外した。  両手で蓋を持ち上げ、ケースの中から新しいキャンバスを取り出す。今しがた壁に立て掛けたものより、二回りほど小さい。  男はそれを脇に抱えて持ち上げると、丁寧な手付きでイーゼルの上に乗せる。 「では始めましょうか」    男が絵を描き始めてからどれくらいの時間が経ったのだろう。  青い怪物は男に頼まれたポーズを維持することに疲れ始めていた。  ――そこに座ったまま、富士山を眺めていてください。あ、体勢は変えないでください。そう……そんな感じです。私から見て少し横顔になるようにお願いします。  体勢を維持すること自体は耐えられるが、富士を眺め続けるというのが青い怪物には苦だった。胸がざわついてしまって仕方がない。 「あ、すみません。目は瞑らないでください。瞬きはしていただいて構わないので」  男は富士を眺める青い怪物の横顔を絵にしたいようで、目を逸らすことも出来ない。  しばし迷ったのち、青い怪物はゆっくりと口を開いた。 「……一つ。話をしてもいいか」  男はきょとんとしていたが、少しの間を置いてから頷く。 「ええ。いいですよ」  青い怪物はこの絵描きに聞いてみたい事があった。  ――これから自分が果たそうとしている宿願についてどう思うのか。  男がどんな答えを返してこようと、自分の行動は変わらない。夜明けとともにここを発ち、富士の湧水地へと向かう。あの山がこの国にもたらす恩徳を根こそぎ奪い去る。  ……ただ、心の内で渦巻く迷いは今もある。青い怪物は男の答えを聞くことで、その迷いを消し去れるのではないかと期待していた。たとえ心の中で揺れる天秤がどちらに傾いたとしても。 「……かつて。とある二つの国が互いに手を取りあって暮らしていた。楽しい時を分かち合い、辛い時は助け合い……どのような時も互いを魂の片割だと思って、寄り添い共に同じ道を歩んでいた」  青い怪物はぽつりぽつりと語り始めた。物憂げな怪物の話ぶりに、男は思わず筆を止めて本人に目を向けた。 「その名を日の国、雨の国と言う」  青い怪物も男へと目を向ける。しばし視線が交わったが、怪物は再び富士へと視線を戻した。  気付けば地を叩きつけるような雨足が弱まっていた。川のせせらぎのような音が辺りを満たしている。  遠く遥か空の彼方で、虎視眈々と獲物を狙う獣が唸るように、ゴロゴロと雷が鳴いた。 「日の国は大地に恵まれ、作物が豊かに実る国だった。――しかしいつの頃からか、次第に雨が降らなくなり、大地を焦がすような日差しが照りつけるようになっていった。潤沢な土壌があるにも関わらず、作物が育たなくなり、山や水辺の側で生活している集落以外は、ほぼ壊滅した」  青い怪物はそこで一拍置き、男を見た。 「描かないのか? 気を削ぐようならやめるが」 「あ、いえ。すみません。お話続けてください」  男は慌てて筆を持ち直し、キャンパスへと視線を落とした。青い怪物は再び富士を見やる。 「雨の国はその名の通り、雨が降り止まぬ国だった。地表は水で覆い尽くされ、乾いた土が存在しているところはない。  雨の国で生きる民は皆、この環境に順応していて、日の光を浴びずとも、雨に四六時中さらされようとも生活出来るように進化していた。しかしその代償なのか、日の光に弱くなり、雨を浴び続けていないとまともに生きていけなかった。魚類のように水の中で呼吸が出来るわけでもなく、地上で身体を濡らしていなければ生活もままならない」  青い怪物の目つきが鋭くなる。男が声をかけようと手を挙げかけたところで、すっと目つきが戻った。 「雨の国の中心には、大きな湖があった。湖には国の神を祀っている神社があり、民にとって最も大切な場所だった。  ある時。麦色の肌をした男が倒れているのを社の世話をしている巫女の一人が発見した。巫女は気絶していた男を社務所まで運び、看病した。  やがて目を覚ました男は“日の国というところから来た”と巫女に告げた」  青い怪物は鼻を鳴らして瞼を閉じた。わずかな間そうしてから、絵描きに顔を向けた。とても静かでもの悲しい目つきだった。 「ここから先の話は、どこにでもあるような話だ。だから割愛する」  青い怪物の目が、かすかに細くなる。 「――単刀直入に聞こう。お前は自分の国を救うため、国を不幸にした者へと復讐することをどう思う」  男は目を白黒させたかと思いきや、悩ましげに顔を歪め、呻くように言った。 「さあ……考えたこともないですね。私にはよく分かりません」 「そうか」  実に陳腐な答えだった。  どんな答えを聞こうとも、これから決行することは変わらない。青い怪物はそう思っていたが、心のどこかに穴が空いたようだった。  私はこの絵描きに何を期待していたというのか。 「でも。嫌らしく生きているような奴らよりはマシなんじゃないですか。世の中には自分の欲望の為に人を食い物にするような、堕落した連中も多くいる。  それに自分の国を救うためなんでしょ? 復讐だろうと何かを良くしようとしている。軽率かつ反社会的と思われるかもしれないですが、私腹を肥やそうとしている姑息な奴らよりは遥かにマシだと思います」  男はニカッと笑う。 「僕は好きですよ」 「そうか」  青い怪物はしばし言葉を失っていたが、最後にはそう言って口元を緩めた。 「気が変わった」  青い怪物はすっくと立ち上がる。富士を見上げるその横顔に絵描きは見惚れた。一切の迷いがない勇気と決意に満ち溢れた顔だ。 「悪いが、今すぐに発つ」 「え、それでは約束が違います」  青い怪物は男を見て、顔をほころばせた。 「今日のような嵐の夜に、鏡湖まで来い」 「鏡湖?」 「お前らの国ではそう呼ばれているはずだ。場所は自分で探せ。  いいか。嵐の夜だ。誰にも見つからず一人で来い。そうしたら続きをいくらでも描かせてやる」  青い怪物はキッと外を見据えた。 「またな。機は逃すなよ」  再び雨脚が強くなりつつある外へと出ていく。  絵描きは小さくなっていくその背中を、ただただ見つめていることしか出来なかった。  今日で青い怪物と出会ってから三ヶ月。  あの日から雨は一度も降っていない。
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