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ライン1
眠い体を起こすには、やはり濃いブラックコーヒーに限る。私のように違いのわかる男にとって、良質のコーヒー豆というのは匂いですぐに判別できるものだ。逆に言うとコーヒーとは匂いにすべての情報が詰まっている。そう言っても過言ではないのだ。
コーヒーを煎れている間に、昨日駅前にある行き付けのパン屋で買っておいたクロワッサンをトースターで焼く。パンを焼くというこの一件シンプルな作業にも、拘る部分がいくらでもあるのだが、今は説明を割愛させて頂こう。私も暇ではないのだ。
この時計が7時を指すまでに、私は食事を済ませなくてはならない。
そして、7時半までにシャワーを浴び、髪をセットし、服を選ぶ。そして新聞に目を通した後、ネットで情報をチェックし、8時丁度に家を出る。私はこのルーティンを実に2年の間続けている。その間ルーティン通り進まなかったのは、急な早出以外たったの2回だ。
1回目は一年ほど前、尋常じゃない腹の痛みに襲われた時。2回目はつい最近、ある人物の妨害に遭いまたもや私の金甌無欠な朝のルーティンは崩されたのである。
そう、今まさに欠伸をしながら、のそのそとこちらに歩いてきている人物によって。
「おがよう」
彼女は、欠伸まじりに一般的ではない朝の挨拶を私にしてきた。
「おはようくらいちゃんと言えないか?」と私は彼女には目もくれず、新聞を読みながら言った。
すると今度は「おぱよう」というさらに一般的でない朝の挨拶を彼女はしてきた。
私は、おぱようという挨拶に、なにか意味があるのかと、手を止め律儀に一通り考えてから、意味なんかない、ただの妄言だなと結論付けし、無視して「朝飯出来ているから、ちゃんと食えよ」と言った。
「いやー、毎日悪いね。今日こそは早く起きて私の自慢の料理を披露しようと思ったんだけど。ただ残念な事に目覚ましが鳴らなくてさ~」と言って彼女は椅子に座り、クロワッサンをかじりだした。
私は「自分の意思の弱さを、目覚ましのせいにするんじゃない」と一言言って、彼女を見て戦慄した。
今日初めて目にした彼女は、ピンクのTシャツと紺のジャージのズボンに何故か白の水泳用キャップを被っていたのだった。
「何故、水泳キャップを?」
私はもしかしたら、彼女が被っているものが水泳キャップではない可能性を探るため、彼女が頭に被っている白い通気性の良さそうなメッシュ生地の帽子状の物体を凝視した。
すると彼女は、クロワッサンをかじる手を止め「よくぞ聞いてくれました」とまるで世紀の大発明でもした科学者のように目を輝かし「私、毎朝寝癖が酷いんだよ。色んな方向に飛び跳ねてさ、一回シャワーを浴びないとどうにも出来なかったわけ。でもそんな時間勿体ないでしょ?ていうか面倒くさいでしょ?そこで天才である私が昨日考えだしたのが、この水泳キャップを被り眠るという方法なのです。これで、どうあがいたって、寝癖が立たないのです。これを思いついた時はそれはもう雷でも落ちた様な衝撃だったね。自分の才能が恐ろしい・・・」
そう彼女は声を潜め不敵に笑った。
「帽子を取って見ろよ」と私は一つ気になることがあり、そう言ってみた。
すると彼女は豪快に帽子を脱いで「じゃーん!決まりに決まってるでしょ?」と親指を立てた。
私はコーヒーをひと口飲み「ああ、決まりに決まってるよ。オールバックにな」と呆れながら言って、新聞に目を戻した。
「えっ、しまった。昨日、前髪が邪魔だったから全部中に入れたんだった。それでか~」と癖がついてしまい、いくら前髪を下ろそうとしても、垂直に立ってしまう自分の前髪を弄りながら、彼女は落胆しそう言った。
「お前は頭のネジが幾つかというか、そもそもネジ穴すらないんじゃないか?」という皮肉を私は言った。すると彼女は「言えてる」と爆笑した。
笑ってるよ・・・、と哀れみと、少しの感心の念を感じつつ、ふと時計に目をやると7時3分になっていた。予定時刻を3分も過ぎていた。
私は急いでクロワッサンを頬張り、コーヒーを音を立てて飲み干し、租借も疎かに食器を片付けた。
私の行動を見て彼女は「まったく、お兄ちゃんは、行儀が悪いな」と言って朝食のサラダに手を付けた。
私は2、3発彼女の頭を小突きたい衝動を抑え、足早にシャワールームに向かった。私は経験上解ってきたのだ。あいつに関わると、時間を食われるのはあまつさえ、ストレス、気品、すべてが損失するのだ。ゆえに関わらない。これが得策なのだ。
私はシャワーを浴び、髪を乾かし、櫛とヘアワックスとスプレーで丁寧にセットをする。その間に奴は洗面所にやってきて、私の隣で顔を洗い、そのままの流れで洗面台で豪快に頭から水をかぶり、水泳キャップでついてしまった髪の癖を直し、手で水をすくい、これまた豪快にうがいをして、そして去って行った。
私は茫然とした思いで、去って行く彼女を鏡越しに眺めながら、注意する気すら吹き飛ばす彼女の未開人ばりの野性さに感服してしまった。
髪をセットし終えると、紺のスーツを着て、濃いブルーに斜めに白い縞が入ったネクタイを締め、手の付け根と首元に香水を付け、リビングで、ノートパソコンを立ち上げた。そしてネットでニュースを見ていると奴が制服を着てリビングに現れた。
「用意は出来たか?」と私が尋ねると「完璧」と完璧なる目やにを目元に付けながら彼女は親指を立て微笑んだ。
「目に大きな目やにさんがいらっしゃるぞ~」と私が優しく注意すると「やだ、もう」と少し頬を赤らめながら、彼女は目をこすった。
成る程、この生物、一応羞恥心はあるようだ。
彼女は小柄で、大きな黒々とした瞳と立派な睫毛をもっており、化粧をすればもっと映えるだろうと思うのだが、彼女が化粧をしているところは一度も見たことがなかった。
私は彼女の少女を色濃く残した顔を見て「なんで、年頃なのに化粧もしないんだ?」と気になり聞いてみた。
「面倒臭い。化粧するぐらいなら、ギリギリまで寝ていたいもん」
成る程、シンプルな答えだった。
「その、無造作ヘアーも同じような理由か?」と私はそいつの、少し茶色がかった、よく言えばゆるいパーマ、悪く言えばただの寝癖のような髪型を見てそう言った。
そいつは「えっ?なんでわかったの?」と驚き「そうだよ。全ては面倒臭いからだよ」と不敵に笑った。
私はただただ呆れた。
戸締りをして、エレベーターに乗り、私達はマンションの地下駐車場に向かった。
私は、都内の私立高校の教師をしている。名前は三神聡、歳は25歳になる。そして助手席で大欠伸をしている彼女、私の勤める高校の1年生であり、私の妹の入江いのりだ。
妹といっても、いのりが私の妹になったのは1年ばかり前と最近になってからの事だ。私の父といのりの母が再婚するにあたり、もれなく私といのりは兄妹になったのだ。
当初、いのりは父と母と同居していたのだが、父との性格の不一致、両親が新婚であるという事情などで、次第に同居生活に居辛さを感じ始め、父と大喧嘩を繰り広げ、見かねた私が仕方なく自分の家に住まわした。それが1週間前の話だ。(私の父といのりの性格が合わないだなんて最初からわかりきった事だった)
私は勿論いのりとの同居を快諾したわけではない。私といのりが同じ学校の教師と生徒であるという事。こんな奴だが年頃であるという事実。その他断る理由は色々とあったのだが、しかしまがりなりにも家族であるいのりを無下にはできないという事。両親への気遣い。そして一番の妥協ポイントであるいのりが父と和解し、再び同居する事を前提にするという約束のもと、渋々ながら同居を承諾する事になった。そして同居1日目で早くも後悔する羽目になったのだった。
そんな彼女を、私の愛車であるアルファロメオ・ジュリエッタに乗せ学校に向かった。
今日は薄灰色の雲が空に張り付き、朝日を隠している。予報では午後から雨だそうだ。朝の空気を吸うため私は車の窓を開けた。するとすれ違ったゴミ収集車の排気ガスが、もうもうと生暖かい湿気と共に私の車の中に入ってきそうになったので、わたしはすぐに窓を閉めた。そしてエアコンのスイッチを入れた。
いのりはというと自分のカバンから、CDを取り出して車のコンポに挿入した。
コンポから音楽が流れ始めた。
『夏の海の浜辺は~、暑いよ~、気を付けろ~、貝を思い出に拾いがち~、君と二人だけの、湾内、ワンナイト~♪』
「何この曲?」
私は直情的な歌詞といやにリズミカルなメロディーのこの曲が気になり、いのりに聞いた。
「知らない?キャロル羽曳野の、湾内ワンナイト」といのりは鼻歌交じりに言った。
「まったく知らない」
私は、普段音楽をほとんど聴かないので、最近の流行の曲にはめっぽう疎かった。キャロル羽曳野か・・・覚えておくことにしよう。
「それより、もう少しゆっくり出ようよ。私そんなに早く学校に着いてもやる事ないんだよね」といのりは不満を垂れた。
「私は君とは違って教師なんだ。やる事は山程ある。嫌なら面倒臭がらずにバスで行けばいい、それに君だって勉強やスポーツとやる事はいくらでもあると思うが?」
「私がそんな事、すると思う?」いのりはこちらを向いて、ニヤつきながら言った。
私は目の端でいのりのニヤついた顔を視認すると「思わないがするべきだと思う。君は若い時間を無駄にしすぎている様に私からは見える」と早くも渋滞している朝の道を細かくシフトを変えながら私は言った。
「私は明日、地球が爆発してもいい様に、今日一日を本能の囁く通りに、ダラダラと過ごしたいんだよ」そう言い、いのりは湾内ワンナイトの曲にリズムを合わせて小刻みに揺れている。
「もし爆発せずに歳をとって後悔しても知らないからな」
「するわけないよ。私は今充実しているからさ。死んだ時『ああ、いい人生だった』って絶対思うよ」
「しかし、社会という所はそんな甘い考えで通るような所ではないぞ。日々の努力が大切になる時が出てくるはずだ。我々が生きていくのは、のほほんとした理想郷ではないのだから」
「じゃあ、私はかわいいお嫁さんになって、旦那さんと優しい理想郷を作ります。お気遣いどうもありがとうございました」
「やれやれ、そんな他力本願な・・・」
「お母さんは、女は多少ぬけてる方がモテるって言ってたし、私は自然体な私をもらってくれるお兄ちゃんとはまったく違う、優しい王子様みたいな人を貰いますから、どうぞお構いなく、べーっだ」と言っていのりはあっかんべーをした。
「やれやれ・・・」
私はそう言った後、何も言えなくなり、前を走っているトヨタ車のエンブレムを視線でなぞった。
私といのりは決定的に考え方が違う。私は日々先の事を見据え、自分を鍛え、努力を惜しまないどちらかというと保守的な性格である。童話『蟻とキリギリス』で例えるなら、完全に蟻タイプだ。
一方いのりはキリギリスタイプで、感覚的で後先考えず、今しか見てはいない。そして極度の怠け者で傲慢極まりない部分がある。しかしそんないのりだが、考え方が柔軟で、論理的思考の私をハッとさせる事がたまにある。成る程、そういう考え方もあるのかと、感心することもあるのだが、それはごく稀で、往々にして彼女の考えは極論的で、怠惰から来るものが多い。
それ故、彼女を更正させたいと常々思うのだが、口八丁でまかれ、いつも徒労に終わる事になる。しかし曲がりなりにも妹ゆえ、そして一教師という私の立場から、努力の大切さを知り、恋にスポーツに青春を謳歌してもらいたいという親心が私にもあるのだが、あきらめがちになっているのが現状だった。
学校に着くと車を駐車し、1限目の授業がいのりのクラスの担当である事を思い出し、ひとつ忠告する事にした。
「おい、この前出した世界史の宿題ちゃんとやってるよな?」
「えっ、勿論だよ・・・。えーと、ちなみにどんな内容だっけ?」
明らかにいのりはうろたえている。
「やっているなら問題ないだろ?じゃあ私は行くから」と私はいのりを背に職員室に向かった。
「ちなみにどんな内容だっけー!」という先程より、大きないのりの声を、背中に感じつつ、手を振り私は駐車場を後にした。
*
この学園で私は世界史を担当している。私はこの教師という仕事に誇りを持っている。しかし昨今は理数系を重視する生徒が多く、生徒達のやる気も実にイマイチで、あまつさえ私の授業中に、違う教科の問題集に励む不届き物もいる。私はそんな輩は見つけ次第、歴史、先人達の意思、人間の普遍性等の私の持論を哲学も交え、3時間にわたり伝えるのだが、私の崇高な高説は生徒達には非常に堪えるらしく、不本意ながらに説教として使わせてもらっている。
つまり私は歴史を深く敬愛しており、それゆえそれを軽視する者が許せないのである。
そう窓側の後ろから2番目の席の、教科書を涎まみれにしているあいつを私は許せないのである。
「入江さん、起きてください」私は彼女の席まで行き注意した。
「起きてください。授業中ですよ」私はできるだけ優しくそう言った。
いのりの前の席の優等生である鳥越さんは、必死でいのりを揺すってくれているが、いのりは起きる様子をこれっぽっちも見せない。もし私が帝国主義化の拷問兵なら起きるまで爪を一枚一枚剥がす所だが、今そんな事をすると教育委員会が黙っていないだろう。それに基本、私はフェミニストなのだ。ゆえに私は彼女の睫毛を指でハタハタと擦った。寝ている相手にこの行為は実に効果的なのだ。するといのりは「うーん」と不快そうな声をあげ顔をあげた。効果覿面である。
「おはよう」私は苛立ちを隠し、できるだけ爽やかな笑みを浮かべそう言った。
いのりは上手く状況が掴めないのか周りを見回し「うーん、あれですね」と言った。
そして一通り周りを見て、状況を理解できたのか「とりあえず、すいませんでした」と頭を下げた。
「状況を理解できたようだね。授業中に寝るなんて頂けないな。真っ当な理由があるなら聞こうか?」と私はいのりにチャンスを与えるべく尋ねた。
「違うんです。私は悪くないんです。由利、いえ鳥越さんが、その・・」
急に話をふられた鳥越さんは、わかりやすく焦っている。
「鳥越さんが何か関係あるのか?」と私はいのりに一応聞いてみた。
「あの、病気で」といのりは訳のわからない事を言いだした。
病気?いのりよ、その方程式は非常に難解だぞ。どうたどり着くのだ・・・、と私は少しの興味が沸いてきた。
するといのりは「病気というか、末期でして」と続け様に言った。
「鳥越さん病気なのかい?」と私は鳥越さんに聞いてみた。
鳥越さんは首振り人形のごとく首を横に振っている。
「鳥越さんは、違うと言っているが?そもそも鳥越さんの病気と、君の居眠り、何か関係があるのか?」と私はいのりに聞いた。
いのりはきっぱり「看病疲れです」と言った。しかし鳥越さんの表情は、いのりの自信のある態度とは裏腹に困惑を極めている。
「鳥越さんは違うと言っているし、こうやって学校にも通っている。そもそも君が看病する必要はないはずだが?」と私はいのりを問い詰めた。
「私は鳥越さんの親友です。親友の看病をするのは当たり前の事です。それに老い先短い鳥越さんは、死ぬのは学校が良いと聞かなくて、そうでしょ由利?」といのりは涙ぐむ演技まで見せた。
芸が細かい奴だ。
「鳥越さん、入江の嘘に付き合う必要はないんだ。君が嘘だと言ってくれるだけでこの件は片付くんだ。申し訳ないが、嘘だと一言言ってくれないか?」
鳥越さんはどうすればいいのか解らず、私といのりを困惑の表情で見比べている。
『キーンコーンカーンコーン』
その時、授業終了のチャイムが鳴り響いた。私は驚き腕時計を確認した。いつの間にか授業終了の時間になっていたのだった。
「・・・それでは授業を終わります・・・。入江さん後で職員室に来るように・・・」
私は消沈しそう言った。
「鳥越さん、申し訳なかったね」
私は鳥越さんに向かい謝ると、鳥越さんは、大丈夫ですと小さな声で答えた。そして薄い笑みを浮かべた。
鳥越さんは実にいい子である。
いのりを見ると、早くもカバンから、パンを取り出しかじっている。私は唖然とした。そして徐々に込み上げてくる怒りを抑え教室を出た。
そう、あいつに関わると、時間、品位、全ての物が損なわれるのである。もうあいつには出来るだけ関わらない様にしよう。私はそう心に誓ったのであった。
*
私は職員室に戻ると次の授業の用意を整え、椅子にもたれ、しばしの休憩を取っていた。すると同僚の西野先生が缶コーヒーの差し入れをしてくれた。
「どうしました?少し元気が無い様に見えますが、お疲れですか?」と西野先生は独特のやわらかな甘い声でそう言って、私の顔を覗き込んできた。
その愛らしい表情に一瞬言葉を失ったが、すぐに「大丈夫ですよ」と答えた。
西野先生は大きな潤みのある目をしていて、ホッソリとした顎で、ボリュームの押さえた茶色い髪を後ろで纏めている。
今日の服装は白の半袖ブラウスに黒のスカートというシンプルなものだが、シンプルなものでもバランスの良い体型であれば下手なファッションよりおしゃれに見えるものだ。西野先生はそういう体型の持ち主だった。
西野先生は、私と同じ25歳で、同じ新任としてこの学園に配属になった。その縁で、お互い、生徒や授業の事を相談し合う仲になったのだが、如何せん西野先生は美しい。そしてその事に無自覚だ。いや自覚しているのかもしれないが、そんな事は些細な事と言わんばかりの態度を取る。つまりは非常にフランクなのだ。
美しい女性にフランクに接せられるとそれはもう、男は『恋をするしかない』のである。私もその例に漏れず、彼女に強く惹かれている今日この頃である。
「実は・・・、問題児の対処に困っておりまして」と私は打ち明けた。
西野先生は「問題児ですか?」と言って周りを見回し、小声で「それは、もしかして妹さんの事ですか?」と言った。
「はい」と私は正直に答えた。
私といのりが義理の兄妹である事は、報告するべき人を除き、できるだけ秘密にしている。言うメリットが皆無だからだ。西野先生にも、もちろんそのつもりだったのだが、ある晩、飲みの席で私は泥酔してしまい、西野先生に介抱してもらった事があった。私は覚えていないのだが、どうやらその時に口走ってしまった様である。その他にも色々な私的な事を喋った様で、私がそんな醜態を晒したなんて、未だに信じられないのだが、それを期に西野先生との距離が近づいた事もあり、今となれば良い経験であった。
「そうですか・・・私の授業でも寝ているか、物を食べているか、前の席の子に悪戯しているかですし・・・」と西野先生はいのりの事を憂い、大きな目の上にある、ほっそりとした眉と眉の間にチャーミングな皺を寄せた。
「申し訳無いです。私が責任を持って更生させるべきなのですが、生まれついての自由奔放、天真爛漫の権化でして」と私は頭を下げた。
「先生だけ責任を負う事じゃないですよ。私もできるだけ手を打ってみますから、諦めずに頑張りましょう」と西野先生は華奢な手を握りしめ、元気よくそう言った。
私も「はい。あきらめずに頑張りましょう」と快活に返事をしたものの、私はつい先程、あいつには関わらない宣言をしたばかりなのだ。まったく、西野先生の、私のセラミックよりも堅い意志をも変える、その美貌に完敗である。
「先生、これ朝渡しそびれちゃって、今日もお願いできますか?」と西野先生は、昔、一部に流行した(コンコンコン畜生)という狐のキャラクターが印刷してあるメモ用紙をそっと私の机に置いた。
「はい、わかりました」と私はそのメモ用紙を受け取った。すけべそうな狐が紙の端で笑っている。
私はこのメモ用紙に今日、授業で気になった点や、気になった生徒の事や、改善点や疑問点、その他些細な事を書き込むのである。それを西野先生が纏め一つのファイルにする。これは西野先生が始めた授業の質を高める試みで、私はそれに協力しているのであった。
「いつも、協力してもらってすいません」と西野先生は申し訳なさそうに言った。
「いえいえ、ありがたく思っています。纏めたファイルをいつも見せてもらっていますし、私も気になった点を書くことにより、私自身の勉強にもなりますから」と私はお世辞抜きでそう言った。そして手にした缶コーヒーを掲げ「この、コーヒーでチャラって事でね」と付け加えた。
西野先生はニッコリと微笑み、次の授業の準備に向かった。
『その笑顔を見れるだけで、たいていの苦難など屁でもないですよ』と私はいない西野先生にそう伝えた。
私は椅子にもたれ先程の西野先生の笑顔を、瞼の裏で一通り噛み締めると、腕時計を見て次の授業のクラスへと向かった。
開かれた窓からは、遠くから蝉の声が入ってくる。東京の数少ない土の地面で育った希少性の高い蝉の声は、私に夏の始まりを告げているようだった。
事実、7月も中盤に差し掛かっているので、すでに気温は高く、肌は軽く汗ばみ、猛暑、酷暑へと変わっていく予感が空気を通し伝わってくる。
空は薄い雨雲が広がり、大都会東京は一面灰色の世界と化していた。
人間が人間のために作り出したその世界は何故か人間の匂いがしなかった。
私は窓によって切り取られた現実味の無い絵を何の気なしに眺めていた。
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