第7話 八犬士、玉の文字を巡って互いに相争うの巻

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第7話 八犬士、玉の文字を巡って互いに相争うの巻

 里美の家に八犬士が押しかけ、無理やり住み込み始めて一週間が経った。  お母さんが通販サイトでポチった「まんが南総里見八犬伝」は翌日にすぐ届いた。しかし、このまんがを熱心に読んだらきっと、皆も八犬伝の面白さを知って好きになってくれるに違いないという、お母さんのオタク伝道師としての淡い期待はあっさりと崩れ去った。 「ちょっと!なんでみんな全然読まないのよ!自分が出てるのに興味ないの?」  ほとんど開かれていない「まんが南総里見八犬伝」をパンパンと叩いて、居間でゴロゴロしている犬士たちをお母さんがどやしつけた。 「読んだよ。ちゃんと」面倒くさそうに皆崎 定春が答えた。 「読んだとか言ってるけど、それ自分の出てるとこだけじゃない!それにあなた方の読んだは読んだとは言わない!絵を眺めただけ!」 「だって漢字多いしこの本」 「小学生向けのまんが本なのに、何言ってんのホント⁉」 「いいじゃん。自分の顔が分かれば十分だよこんなの。犬飼現八カッコいいよ。なんか石川五右衛門みたいで最高。こいつが俺だと分かればもう十分」  そう言うと、皆崎はカーペットの上をゴロンと転がってプイと向こうを向いた。  お母さんはハァーと不愉快そうにため息を大きく吐き出すと、皆崎にクイズを出した。 「それじゃ皆崎さん。あなたの玉に出てる字は何?」 「へ?玉の文字?『さ』だろ?」 「違うわよ。それは里美がマジックで書いたほうの字でしょ!元の方よ。もともと浮かび上がってた漢字のほう!」  すると皆崎はバツの悪そうな顔でヒヒヒと笑った。お母さんは「まったくもう」と言い捨てると、隣に寝転がっていた村崎 義一郎を指差して同じことを聞いたが、村崎も同じように気弱に笑うだけだ。お母さんは次々と犬士を指差していったが、結局誰一人として、自分の玉に書かれている本来の漢字を答えることはできなかった。 「まったく!これじゃ本が届くのをわざわざ待った意味なかったじゃない!」  お母さんは毒づくと、テーブルの隅に置いてあったスーパーのチラシを裏返して、そこに鉛筆で何かを書くと、だらけている八人を叱り付けてテーブルの周りに集合させた。  チラシの裏側には、八つの漢字が書かれている。 「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」 「ハイ。これがあなたたちの持ってる玉に本来書いてあった字!」  お母さんはそう言って、このまんが読んでくれればこんな説明いらないんだけどね、と嫌味を言ったが、八人の心には全く響いた様子はない。 「これは中国の教えで、『立派な人はこんな性格をしています』っていうのを漢字一文字で表してるの。  例えば『仁』は『優しい』って意味。だから、『仁』の玉を持ってる犬士は、本来だったら優しい人であるはずなの。『義』は『正義感が強い』という意味だから、義の玉の持ち主である瑠偉くんは正義感が強いはずなのよ本来なら。礼の玉を持ってる義一郎君は礼儀正しいし、智の玉を持ってる坂崎さんは頭がいい」  全然玉の文字の通りになってないわね、と里美は思ったが口には出さなかった。 「まぁ、今あなた達が持っている玉には里美の名前がひらがなで書かれちゃってるけどさ。それでもあなた方は犬士なんだから、ちゃんと元の玉の文字を知って、自分がそういう人間だっていう自覚を持って毎日暮らしてほしいのよね」  そう厳しく言ったお母さんの目は真剣そのものだ。そりゃそうだ。昔から憧れていた小説の主人公が目の前にいるという、オタク的には鼻血を噴いて倒れてもおかしくない夢のような状況なのに、その主人公たちがこんな冴えないボンクラ揃いだったらそれは悲しいだろう。  お母さんは何とかしてこのダメダメな主人公たちを、自分好みの勇者に教育していくつもりらしかった。 「それじゃ、あなた方の本来の名前と本来持っていた玉の文字と、今のあなた方の名前と今の玉の文字を並べて書くわね。ちゃんとこれ見て覚えるのよ!」 仁 犬江 新兵衛 仁  → つ 江崎 常雄 義 犬川 荘助 義任  → る 川崎 瑠偉 礼 犬村 大角 礼儀  → ぎ 村崎 義一郎 智 犬坂 毛野 胤智  → さ 坂崎 聡 忠 犬山 道節 忠与  → き 崎山 貴一 信 犬飼 現八 信道  → さ 皆崎 定春 孝 犬塚 信乃 戌孝  → と 塚崎 朋也 悌 犬田 小文吾 悌順 → み 田崎 満  田崎満が「俺の『悌』ってなに?」と太った丸い顎を揺らしながら聞いた。お母さんは苛立たしげに「年上の人の言う事をちゃんと聞くってことよ!」と言い捨てた。 「えー。やだよそんな。かったりい」と言って田崎はゲラゲラと笑う。田崎のだらしない顎の肉がダルンと揺れる。 「だいたいさ、玉に書いてある文字が持ってるやつの性格を表すとかさ、バカバカしくね?それって何なの?俺の真の姿はジイさんバアさんに優しいの?この俺が?」 「『悌』という文字には、年下をかわいがるという意味もあるわね……」 「……ハァ?何それ?俺、年下にも優しいの?ってことは、タメの奴らには冷たいのかな俺?」  そうやってバカにしたような顔で田崎は笑い続ける。田崎が口を大きく開けて笑うと、分厚い脂肪に覆われた首と顎が一体化して、まるで亀が首を甲羅の中にひっこめたようになった。 「だいたいそれならさ、今の玉の文字だって俺の性格を表してるってこと?いま俺が持ってる玉の字は『み』だぜ?……何だよそれ、腹を押すと身が出てきちゃうってことか?」  つまらない冗談を言って独りでケラケラ笑っている田崎を、お母さんは汚く湿った洗濯物でも見るような目でじっと横目で眺めたまま、もはや一言も返事をしなかった。  すると今度は川崎 瑠偉が、自分の名前のところにある「義」の字を指さして不服そうに言った。 「なあ、本来の俺の玉ってこれ、『ぎ』って読むんだよな?」 「そうだけど?」 「村崎がいま持ってる玉も平仮名だけど『ぎ』じゃん?ややこしくね?」 「あ。確かに」 「なぁ、それじゃあ村崎さ、俺の『る』の玉とお前の玉を交換しようぜ。お前の『ぎ』の玉は俺が持ってた方が絶対いいと思うんだよ。だって俺が『義』なんだから」  そこに慌ててお母さんが割って入った。 「ダメよ勝手に交換なんかしちゃ!村崎君の玉は、たまたま今は里美のいたずら書きで『ぎ』の玉になっちゃってるけど、本来は『礼』の玉なのよ。それを勝手に入れ替えたら、もし今後、何かのきっかけで元の字が復活した時に、なんかおかしくなっちゃうじゃない!」 「え?いいじゃんか別に。もし元の字が戻ったら、その時に交換するからさ」  そう言ってごねる川崎に、今度は他のメンバーが食ってかかった。 「おい、お前だけたまたま本来の玉と今の玉で同じ字があったからってさ、自分だけそうやって字を合わせようとするのはズルいだろ。みんな我慢してんだ」 「そうだぞ俺なんて『と』だぞ。ドアかよ俺。将棋じゃねえんだぞ」 「俺の『つ』も全然意味わかんねえ」 「俺もだ。ズルいぞ瑠偉ばっかり、なんか自分だけカッコいい感じにしようとして」  そのまま八人は、やいのやいのと再び揉め始めた。別にいいじゃないの玉の文字くらい、心が狭いわねと里美は思ったが、それを口に出したらまた、ひな壇芸人ばりの統率の取れた動きで「そもそもお前のせいだろ!」と全員から詰め詰めにされるのは間違いないので黙っていた。 「――でもさ、実は私と皆崎くんの玉、もう入れ替わっちゃってるかもしんないのよね」  そう言って今度は坂崎 聡が、自分が持つ『さ』の玉を手のひらに乗せて前に出した。  坂崎はここに来て早々、お母さんに性同一性障害を指摘されてカミングアウトしてから、それまで無理して混ぜていた男っぽい言葉遣いをさっさと止めて、完全に女性のような口調で話すようになっている。 「ほら、皆崎くんの玉も私と同じ『さ』だから……。あのさ、私たちが最初に八人全員が集まった時、この八文字が何を意味するのか分からなくてさ、テーブルの上にバラバラに出して並べ替えてさ、『とさつみぎるさき』とか『さぎとみつきさる』とか、パズルみたいなことやってたでしょ?  それやる時に、皆崎くんの『さ』と私の『さ』が区別つくようにちゃんと目印つけとくの、うっかり忘れちゃってたのよね。だから、今私が持ってる『さ』が自分のものだったか、皆崎くんのものだったか、いまいち自信が持てないのよ私」  それを聞いて皆崎 定春が慌てて自分のポケットをあさり、小銭入れの中から「さ」の玉を取り出した。そこには小学生の下手くそな筆跡で、『さ』とマジックで黒々と書かれていた。 「ホントだ……。これが自販機の下から俺が見つけた『さ』だったかどうか、全然思い出せねえ。これで合ってる気もするし、こっちだったような気もするな……」  二つの「さ」の玉を見比べて、坂崎と皆崎は黙りこくってしまった。 「っつーかよ、なんで性格を象徴するとかいう玉なのに、字がかぶってんだよ。それじゃ坂崎と皆崎の性格が同じなのかよ。全然違うじゃねえか二人」  川崎 瑠偉が、そう言って今度は里美にいちゃもんを付け始めた。 「そんなこと言ったって、この字は私の名前なんだから仕方ないじゃん!」  すると皆崎 定春がとんでもない事を言い出す。 「お前が里美だからこんな厄介なことになるんだよ。仁美だったら良かったんだ」  それに軽いノリで同調する坂崎 聡。 「あ、いいねそれ。『ひ』の玉ならカッコいい!ファイアーだ。私それがいいなー」  そして皆崎と坂崎の二人は勝手に相談を始めた。 「シンナーで消せないかな、この『さ』の字。職場にシンナー置いてあるから試してみようぜ今度」 「あ、でも『ひ』の字の玉をもらうのは私よ」 「え?ダメだってば『ひ』は俺のもんだ。勝手に取るなよ」 「何言ってんの?さっきまで『さ』の字が私とかぶってることすら気づいてなかったくせに」 「でも、名前を仁美に変えようって言い出したのは俺だろ?」  なんだかよく分からないことで揉め始めた坂崎と皆崎の二人に、里美が横やりを入れた。 「ちょっと!なんで勝手に私の名前変えてんのよ!シンナーで字消すのも無しよ!」 「え?どうした仁美?」 「仁美じゃない!里美!」  玉の文字を巡ってギャーギャーとくだらない言い争いを続けている八犬士を前に、お母さんはさっきから不機嫌そうにずっと下を向いたまま微動だにしなかった。  長年連れ添った夫婦の勘で、お父さんが真っ先にその不穏な様子に気付き、皆の言い争いを止めようと慌てて口を挟もうとしたが、もう遅かった。 「あんたたちね……」  そう静かに言ったお母さんの口調は、まるで雪女のように冷たい。 「犬士なんだから犬士らしくしろって言ったばかりでしょうがッ‼  このボンクラッ!ダメ男どもッ!ひょうろく玉!しゃきっとしなさい!いいわねッ!」  そう鋭く大声で言い放ったお母さんのあまりの迫力と殺気に、一同は揉めるのを止め、あっけに取られて「はい……」と小声で答えることしかできなかった。
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