第8話 里美、犬士に湯浴みを試みて悪戦苦闘するの巻

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第8話 里美、犬士に湯浴みを試みて悪戦苦闘するの巻

「早くしろよギっちゃん。後がつかえてんだから」 歯ブラシを口に突っ込んだ崎山 貴一が、苛立った声で村崎 義一郎を急かした。  村崎は「ごめん」と気弱そうな小声で謝ると、肩を縮めてそそくさと庭の水道の蛇口を崎山に譲った。その後ろには坂崎 聡と川崎 瑠偉と皆崎 定春が、同じように歯を磨きながら蛇口を使う順番を待っている。  剣崎家に居候するようになった八人の犬士は、交替で二人が剣崎家の空き部屋に泊めてもらい、残りの六人がライトバンとテントで寝泊まりしている。剣崎家に泊まる二人は家の洗面台を使えることになっているが、外の六人は家庭菜園用の水場にある一つの蛇口を全員で使うので、朝はいつも大混雑だ。 「キーチ、満はまだ寝てんのか?」  皆崎が崎山に尋ねた。村崎 義一郎は崎山 貴一と名前が似ていて紛らわしいので、八人で相談した結果、義一郎のほうを「ギっちゃん」、貴一のほうを「キーチ」と呼んでいる。  昨晩は崎山と田崎 満がライトバンで寝る日だった。崎山は不機嫌そうに答えた。 「ああ。寝てる。なあ俺、もうアイツとライトバンで一緒に寝るの嫌なんだけど。アイツが寝返り打つとさ、時々尻のボタンが押されて屁が出るから臭くてたまんねえんだよ。デブだからシートに収まりきらなくて俺の方にはみ出してくるし」  そう言ってぼやく川崎に、皆崎がヒヒヒと笑いながら軽口を叩いた。 「でもさ、これからの季節寒くなると、アイツが隣にいると暖かそうだよな」  崎山は、うるせえ、ローテーションもう一度組み直しだ、と吐き捨てるように言った。  早いもので、犬士が里美の家に押しかけて一緒に暮らすようになって、もう二週間が経った。  最初のうちは、押しかけられた剣崎家も押しかけた八犬士も、慣れない新しい暮らしにぎこちない感じだったが、一緒に暮らすための色々なルールがこの二週間で自然と決まってきて、だんだんとペースが整ってきた。  最初から決まっていたルールは、八人の犬士のうち二人が剣崎家の空き部屋で寝泊まりし、二人が江崎 常雄のライトバンの車内で寝て、残りの四人は一人ずつテントで寝るというやり方だけだった。  寝る場所は毎日ローテーションで順繰りに交替していくこととしたが、性同一性障害で自分を女性だと認識している坂崎だけは、他の犬士と相部屋になるのを嫌がったのでずっとテント暮らしである。残りの七人が、ローテーション表を作って剣崎家・ライトバン・テントの三か所を順番に回って寝泊まりする。  食事は、剣崎家に寝泊まりする二人だけは、剣崎家の食卓に加わって一緒に食べさせてもらうことに決まった。その代わり、食事の材料費や風呂などの光熱費やらを全部ひっくるめて、泊まった人は一人あたり一日五百円を剣崎家に支払う。  ライトバンとテントに泊まる六人は、外食かコンビニ飯などで各自勝手に食事を済ませる。飲食店でバイトしている塚崎と川崎は、仕事場でまかないのご飯が出るのでそれを食べているようだ。  ただし結局、朝食だけはお母さんがサービスで全員分を作ってあげることになった。その代わり材料費として、犬士達は一食二百円、毎月一人六千円を剣崎家に支払う。  お母さんは毎朝十一人分の朝食を作らないといけないわけで、これはかなりの重労働だと思うが、「作ると言ってもごはんともう一品くらいだし、大きな鍋とフライパンを買ってきて一気に作っちゃえば三人前も十一人前も一緒!高校生の年代の子に、そこまでさせられないわ!」と言ってお母さんは自分からこれを引き受けた。  たとえ無礼で粗野なボンクラぞろいでも、里見八犬伝オタクのお母さんはなんだかんだ言ってやっぱり八犬士のことが好きみたいで、この二週間、できる範囲で色々と彼らを助けてあげている。  季節は十一月下旬。富津市は房総半島の南の端にあるとても暖かい街だけど、それでもそろそろ野宿には厳しい季節だ。  犬士たちは全員フリーターで、あまりお金はもっていなさそうな様子だ。でも「ここで野宿していると、家賃で毎月何万も取られないから財布はけっこう楽だ」と言って、「その代わりテントと寝床にはお金を惜しんじゃダメだよな。死ぬよな」と、冬山登山用のかなりしっかりしたテントと寝袋を買い直していた。そして最初に持ってきたテントは荷物置き場として使っている。  寝床も地面に直接横になるのではなく、オートキャンプ用のかなりしっかりしたアルミの折り畳み式ベッドを買ってそこで寝ているので、野宿とはいうものの、思ったより快適そうではある。 「意外とたくましいわよね、あいつら……」  居候の犬士二人が寝るために二階の和室に去ったあと、居間のソファーに寝そべったパジャマ姿の里美が、ビールを飲んでテレビを見ているお父さんに言った。 「最初はどうなる事かと思ったけど、野宿生活に着々となじんできてるな」  お父さんがそう答えると、お母さんはどことなく嬉しそうに言った。 「やっぱりねぇ、残念になってもやっぱり犬士は犬士なのよ」  そうかなぁ……と、里美はお母さんのその前向きな言葉には納得しなかった。お母さんは犬士に甘すぎる。  だってあいつら、なんと言えばいいんだろう……  えーと……、とにかく…… 「薄汚い!」  そう言って里美は、キャンプ用の折りたたみテーブルを囲んで何やら熱心に相談している八人の犬士達を指さした。いきなり何を?という戸惑いの表情を浮かべて、八人が里美の方を振り返る。 「あんたら、この前は入るって言ってたのに、風呂ちゃんと入ってないでしょ!」 「え?入ってるよ里美ちゃん。ヒヒヒ」  皆崎がそう言って笑った。皆崎の笑い方には変な癖があって、なんだかいつも薄気味悪い。 「嘘!だいたいアンタらね、洗濯もしてんの?同じパンツ何日も続けて履いてない?」 「履いてないってば。ホントやめてくれよヒヒヒ」 「全然信用できない!じゃぁ、なんでそんな服が薄汚れた感じになるのよ。それになんか汗臭いし、みんな髪の毛ベッタベタだし……」  八犬士との共同生活が始まって、最初に大きな問題になったのが風呂と洗濯だった。  初日、とりあえずやってみようと言う事で、里見家の小さな風呂に剣崎家三人と犬士八人の計十一人が入るのを試してみたが、八人目くらいでさすがにお湯の量と汚れに限界が来た。  シャワーで済ませるには十一月の気温は厳しい。かといって風呂を二度沸かすことにしたら、最後の一人が風呂から上がるころにはもう深夜になってしまう。  結局、犬士たちは剣崎家に泊めてもらう番の二人と、女性の心を持っていて万年テント暮らしを選んだ坂崎だけが剣崎家の風呂を使わせてもらい、残りの屋外組の五人は銭湯や温泉センターに通う事になった。  洗濯物も、三人家族用の剣崎家の洗濯機で十一人分を洗うとなると、毎日三回は回さないといけなくなる。干す場所もない。それと、犬士の洗濯物を自分の下着と一緒に洗われるのを里美が断固として拒否したこともあって、犬士は全員コインランドリーを使うことになった。  風呂と洗濯に関するルールがそのような形で決まった時、いつの間にか自然と八人のリーダー格のようになっている崎山 貴一が「別に気にしなくてもいいですよ。俺ら勝手に居着いちゃってるわけだし、そんな迷惑は掛けられないし。僕らで勝手にやりますから」と、嘘くさい笑顔を浮かべながらお母さんにそう説明した。  でも、その表情を見て里美は即座に「あぁ、こいつら面倒くさくなって風呂も入らないし洗濯もやらないつもりだな」と鋭く察知した。  剣崎家があるのは富津市の郊外の、周囲には畑と林が広がる片田舎だ。銭湯も温泉センターもコインランドリーも徒歩圏にはない。  そうなると、入浴と洗濯に行くためには江崎 常雄の運転するライトバンだけが頼りだが、この見るからにものぐさで身だしなみに無頓着なメンバーが、わざわざ手間と時間と安くないお金をかけて銭湯とコインランドリーにまめに通うとは思えなかった。 「でもさ、そんなこと言われてもしょうがないじゃん。アンタんちに風呂も洗濯機も使うの断られちゃったんだからさぁ」  皆崎の言葉に里美がかみついた。 「やっぱり風呂も入ってないし洗濯もやってないんじゃん!」 「あ?やべ。バレた。ヒヒヒ」  そう言って皆崎は、さりげなく左頬に手を当てるふりをして、左頬にある赤いボタンの丸アザを押した。皆崎の舌がニュッと出てアッカンベーの顔になった。 「まあ、多少は大丈夫だよ冬だからさ」 「バカ!ちょっともう、何とかしなさいよ全員でさ!」 「いちいちうるせえなぁ。でもさ、俺ら野宿だけど歯はちゃんと毎日磨いてるぜ。それは褒めてくれてもいいじゃん」 「そんなの当然でしょ!わざわざ褒められるようなもんじゃない!」  そう言って皆崎に食ってかかる里美を、塚崎 朋也が「まぁまぁ」とたしなめた。かなりの脂性である塚崎の顔は、野宿生活を経てますますギトギトとそのテカリとぬめりを増している。もともとの顔の造りが比較的さわやかで女性的な感じなだけに、いっそう残念な感じだ。 「里美さん。まぁ確かに風呂と洗濯の問題はあるんだけどさ、悪いけどいま俺らそれどころじゃないんだわ。野宿ってやっぱ、とっても不便でさ。  もっと優先してやるべきことが山ほどあって、ちょうど今それを相談してたとこなんだ」  塚崎の落ち着いた口調に里美は少しだけ冷静になり、優先してやるべきことって何よ?と聞いた。塚崎はそれには答えず、メンバーを再び折りたたみテーブルの上に置かれた紙に注目させ、打合せを再開しようぜと言った。  紙の上には、汚い字でこんなことが乱雑に書きなぐられていた。  ・コンセント  ・バーベキューコンロ  ・ハンモック  ・蛇口の数  ・テレビ(共用)とゲーム機  ・生活の足:原付(免許どうする?)、常雄ライトバン 「まあ、コンセントの数を増やすのが最優先、ってのはもう決まりでいいよな?」 「ハンモックなんて後でいいじゃん。誰だっけこんなの言ったの」 「それ俺。やっぱキャンプっつったらハンモックじゃん。憧れなんだよ俺の」 「知らねえよ瑠偉の憧れなんてよ。そんなん後でいいだろ。それよりテレビだよ」 「テレビこそいらねえじゃん!携帯で見ろよ携帯で」 「ダメなんだよ、大画面で見たいだろサッカーとか映画はさ。それにテレビがあればゲーム機もつなげられる」 「ゲーム機いいね!必要必要」 「おいお前ら、娯楽は後にしろ後に。まずは食事だって。コンセントの次はバーベキューコンロだよ絶対」 「そんなさぁ、どうせ買ってもバーベキューなんてほとんどやらねえって、面倒くさくて」  ……さっきからやけに熱心に、何を相談しているのかと思ったらそういうことか。  里美は腹の底から大きく息を吸い込むと、横隔膜にぐっと力を込めて、ありったけの大声を張り上げて叫んだ。 「そんなのどうでもいい‼」「風呂と‼」「洗濯ッ‼」
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