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第1章 師匠宅にて 【直己side】
第1章 師匠宅にて 【直己side】
─ 7月上旬 ─
「失礼します」
一言そう言って、直己は襖の引き手に指をかけた。
何の抵抗も無くスッと滑るように開いた襖の向こうには、十畳ほどの和室が広がっている。
幾度と無く訪れているその部屋は、聖なる場所でもあるかのように、いつも清浄な空気に満ちていた。
庭に面した障子に透ける柔らかな光が落ち着いた雰囲気を醸し出す中、恰幅の良い50代半ばの男性が和服姿で将棋盤の前に正座している。
20名程の門下生を抱える将棋のプロ棋士、入部泰九段──
直己は後ろ手に襖を閉め、その場に座って師匠にあたるその人をじっと見入った。
入部師匠は眼を瞑って微動だにせず、年季の入った将棋盤の上には基本の型に整然と駒が並べられている。
その姿は幼い頃から入部将棋道場に通っている直己にとって、既に慣れ親しんだ光景だった。
深澤直己は将棋のプロ棋士を養成する機関『奨励会』の三段に在籍している。
プロ棋士として認定される四段への昇段をかけて半年に亘る三段リーグを戦っている真っ最中だ。
と同時に現役の高校生でもある直己は、一学期の期末試験を午前中に終えた後、師匠からの呼び出しを受けて入部邸を訪れていた。
が、しかし当の師匠は用件を切り出す風でも無く、沈思黙考の態で身動きひとつしない。
だけどそれもまた、いつもの事。
ただ静かに待ち続ける。
不意に、師匠の体が動いた。
立ち上がった訳じゃ無い。横に転がるように倒れたのだ。
そして、う~、う~、と呻き声を上げながら辛そうに顔を顰めている。
「はぁ~」
ぴぃん、と張り詰めていた空気が一瞬で緩み、直己の口から力無い溜め息が零れた。
おもむろに師匠に近付くと、小刻みに震えている足袋の先をつんつんと突く。
「っひゃ!ああぁぁっ!!」
嬌声のような声が上がった。ただし、野太い中年のそれで。
「気色悪い声出さないで下さい。今日はどれくらい我慢できたんですか?」
「っく…、に、20分…」
「前回と同じじゃないですか。ちゃんと練習したんですか?」
そう言うと、直己はぎゅっと強めに足袋を掴んだ。
「ぎぇえぇぇっっ!!!」
いいトシのおっさんが仰け反って奇声を張り上げる。
(鳥が縊られてるみたいだな…)
身悶える師匠の残念な姿に、将棋だけなら尊敬してやまないのに…、と腹立たしい気持ちが抑えられない。
もう片方の足も踏みつけてやろうか、と立ち上がりかけた時──
すぱぁん!!と小気味良い音を立てて襖が勢いよく開け放たれた。
「こらっ!直己!!また親父を苛めてるな!!」
「人聞きの悪い…、遊んでるだけですよ。譲さん」
「…どっちにしろやめとけ。身内なだけに見るに耐えん」
「でしょうね。仮にも将棋連盟の重鎮が…」
言葉を切り、ヒクヒクぶるぶると蹲って震えている師匠の背中を一瞥した直己は、
「正座が大の苦手だなんて…」
と、冷たく言い放った。
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