リ・ステージ

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 第一部の最後、クラシックバレエの繊細な動きを土台に、大胆なアレンジを施した複雑な振付を完璧に踊りきってステージから降りると、いつもの虚脱感に襲われた。今日のこの大舞台でも変わらない。それは、ショーをやり遂げた満足感とは全く逆の、自己嫌悪にも似た感覚だ。 「お疲れ様でした」  何十人ものスタッフが賞賛の言葉と拍手をくれるが、苦笑いを向けるだけで精一杯。それ以上の何かを求められたとしても、罵声しか返せない。スタッフもそれを知っているから、わたしの半径二メートル以内に近寄ってくることはない。  楽屋に戻り、半分まで減った二リットルのペットボトルに口をつけて給水。喉から胸へと落ちる冷たさは、照明と観客の熱気にあてられた体をさましてくれるが、すぐに熱を帯びた汗になって流れ出てしまう。タオルはひどく濡れていて、汗を拭っているのか体を湿らせているのか分からない。苛立ちに任せてタオルを鏡に投げつける。鏡の中のわたしが、目を逸らした。  椅子に体を預け、足を机の上に投げ出す。頭を思い切り後ろにもたせかけると、背後の鏡にいたわたしが、汗で乱れ放題の髪の毛を掻きむしっている。  目を閉じて息を吐く。体の中で暴れる獣を吹き出すように。鏡の中から覗き込む小鬼を追い出すように。  その時、遠慮がちなノックの音が聞こえた。  誰だ。第二部のステージまで、まだ十分近くある。休憩時間にわたしに声をかけてくるような愚か者はスタッフの中にはいない。恐れ知らずの客が忍び込んだか、VIP気取りの関係者がアホづら下げてやってきたか。 「扉なら開いてる」  声を荒らげる。しかし、ドアはうんともすんとも言わない。足を下ろして体を起こす。ドアを睨みつけるが、何も起こらない。ここまできて尻込みしたとでもいうのか。去るとしても、それならそれで顔を見せて詫びを入れるべきだ。気持ちが悪くてしょうがない。 「誰なの!」  立ち上がってドアを開け放つが、誰もいない。  本当に、誰もいない。  ノックの主だけじゃない。第二部のステージに向けて転換に大わらわのはずのスタッフもいない。耳をすますと、いつも客席から聞こえてくるざわめきや、エントランスから聞こえてくる賑わいも聞こえない。  耳の奥から、何かが湧きだすような異様な音が聞こえてくる。わたしが疲れているのだろうか。ステージ裏の前室を抜け、袖の階段に足を掛ける。ごぼごぼと、泡が噴き出すような音。やはり誰もいない。頭上を見ても照明の姿はない。転換中は休む暇のないはずの大道具もいない。なのに、第一部のステージセットはきちんと撤収されている。この短い時間で、どうやって……。  幕をはぐって、ステージの上から客席を見て愕然とした。そこには人っ子一人おらず、真っ黒な空席が視界の彼方まで並んでいるだけなのだ。  苛立ちが熱気と共に去っていく。一人ぼっちの体を残して。  ごぼごぼごぼ。 「十七番、アルバ・ムリーリョ」 「はい」  すべての始まりは、あのオーディションだった。鏡張りの控室で、ノックに続くわずか二言で落選を知らされた。関係者が皆帰ってしまうのを待ってから忍び込んだ真っ暗なステージの上で、怒りに任せて踊っていたら、誰もいないと思っていた客席から声がした。 「君は、お客が嫌いなのか」  暗闇の中から何かが飛んできた。拾い上げると、先端が上向きにとカールした靴だった。道化師が身につけているものだ。 「誰なの!」 「君こそ何者なんだ」  もう一足飛んできた。拾い上げるまでもない。暗闇の中でもわかる。モノトーンの色彩が反転しているが同じ靴。ふざけた男だ。 「わたしが道化だっていうの!」 「それは、僕の靴だ。僕こそが道化だ。それすらわかっていない君が、ステージに立って何をするっていうんだ」  声の聞こえた方向に向かって駆けだしたが、彼の姿を捕らえることはできなかった。  あれから七年。あの日の怒りを忘れたことはない。決して順調とは言えないが、それでもここまで上ってきた。もう、好き勝手なことは言わせない。  そう。あの男はきっとどこかでわたしを見ている。  その時、真っ暗だったはずの客席にスポットライトが当たった。座席の上には、道化の靴が揃えて置かれている。  ごぼごぼ。  耳の奥から湧き出す泡が、口の中にまで這入りこみ、喉の奥まで覆い尽くす。苦しい。首を掻きむしる左手。客席に向けて右手を伸ばし、声の出ないまま必死に助けを求める。客席のスポットライトが一つ増えた。そこには、ダークスーツに身を固めた中年の男性が座っていた。それがあの男なのかは分らない。男は私の苦しむさまを見て満足そうにうなずくと、手を叩き始めた。その音はやがて客席中に広まり、うようよと蠢く客の群れを産み出していく。  伸ばした右手の先にライトが当たった。  ――温かい。  突然、後頭部を殴りつけるようにドラムのフィルが鳴り響き、音と光の波がわたしの全身を包み込んだ。ステージの第二部は、生バンドを迎えてライブならではの力強い躍動感を表現する。わたしの頭は状況についていけないが、体の方は自由に音を捕まえ、ライトが照らし出す道を追ってステージ上を駆け巡る。客席に広がる手拍子は、バンドの各パートが複雑に組み合わせるポリリズムを、あるいは四拍子、あるいは七拍子と思い思いに捉え、大地を叩く雨音となって会場を包み込む。  その中心で泡がはじけた。と思ったら、次の瞬間には客席中が沸き立つ泡の大合唱へとなだれ込んだ。わたしは、その泡に必死についていこうと、全身にしみ込ませていた振付を一気に絞り出した。  そうか。  わたしを取り巻くすべてに踊りを引き出されながら、気づいた。  バックステージと客席こそが、本当のステージなのだ。わたしの立っているのは、彼らのステージを見るための特等席にすぎない。  わたしは、自分を見て欲しかったんじゃない。集まった人たちが熱狂という名の演目を上演する様子を、最高の場所から眺めたかったのだ。 「僕こそが道化」  男の声は、ごぼごぼと沸騰する人々の中に飲み込まれた。  わたしの体も、溢れかえる音と光の中に溶けて消えた。
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