新天地

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新天地

「実るほど (こうべ)を垂れる 稲穂かな」  旦那さまは、つぶやくようにおっしゃって、あたしを振り返りました。 「どういう意味か、わかるかい」 「へえ。あたしは学もないし、農家の出でもないので、とんとわかりません」  旦那さまが少し顔をしかめるのを見て、あたしは答え方を間違えたのだと気づきます。  わざとじゃあ、ありません。あたしは本当に思案する頭がないのです。器量だって人並み、愛想がいいのだけが取り柄だと言われております。  いつでもニコニコと阿呆のように笑う奴だと言われて小突かれることはありますが、それだけです。笑ってさえいれば、どれほどつらい出来事だって、少しだけつらくなくなるのです。  父親の顔を知らず、母親も亡くした十五の娘には、他に出来ることなどありません。 「そうして、卑下するものではないと言っているだろう。伊代の生まれや育ちは、伊代のせいではない。置かれた境遇で懸命に生きてきたおまえは、けして、わけもなく下を向いてはいけないよ」 「へえ、旦那さま」  旦那さまは、大変に立派な方です。それほど高くない生まれだと言いますが、才覚と度量一つで、幕末の大変な時代を生き抜き、新しい明治の御代を切り開いてきた、それはもう素晴らしい、あたしのような小娘から見れば、天上の人のようなお方です。  幾つものお役目があり、立派なお屋敷をかまえ、キラキラ輝く勲章をも賜っているのです。この日の本の国を統べておられる神様の子孫であられる陛下にも、お目通りのかなうお方です。あたしのような卑しい者から見れば、旦那さまだって神様のような方なのです。  ですが、旦那さまはちっとも偉ぶることなく、取るに足らないあたしにだって、とても親切にしてくださいます。 「なんの話だったかな。そう、稲穂の話だ。これはな、ぎっしりと米粒の詰まった稲穂ほど、その重みで頭が下がっているように見える。そういうことだ」 「へえ。たしかに、頭が重いと垂れ下がりますなあ」 「逆に空っぽの稲穂は、頭が下がることなく、まっすぐに立っていられる。つまり、中身のある人物ほど謙虚だという意味だ」 「はあ」 「頭を下げることを知らない驕った者は、肝心の中身がスッカラカンなのだ」 「へえ、スッカラカン。あれ、まあ」  旦那さまの口ぶりが可笑しくて、思わずクスクス笑ってしまいます。旦那さまも、口もとを少しあげて笑みを見せてくれます。他愛ないことですが、あたしにとってはこういう時間が一番、嬉しいものです。  旦那さまは背が高くて痩せ型ながら、大変に逞しい方です。勇ましく、腕っぷしが強く、長らく陸軍を束ねるお役目にありました。多くの人々から頼りにされているお方です。  なにしろ、毎朝早くに起きて、槍の鍛錬を欠かすことがありません。 「いまから十五年前になるが、一年半かけて、欧羅巴(ヨーロッパ)亜米利加(アメリカ)の軍隊や議会やらを見てまわることがあってな」 「へえ」  遠い遠い海の向こうには大きな大陸があって、様々な国があることは、あたしでも知っています。  (しん)朝鮮(ちょうせん)よりも、もっともっと遠くに、赤ら顔で髭モジャ、真っ白な肌をした大男たちの国があるんだそうです。まあ、あたしは一生、そんな()つ国なんかに行くことはないのでしょうが。 「独逸(ドイツ)という国では、貴族の手で経営される農場があった。街中には大きな宮殿や、市場、数々の工場などがあるが、街から離れた郊外には、見渡す限りに畑や牧場が広がっているのだ。それは美しいものだった」  旦那さまは、遠くを見るように少し目を細めておられます。ありし日のことを思い出しているのでしょう。 「それでだ。この日本の国でも、華族農場というのを作ろうという話になってだね。この東京からは北にある『那須野が原』という土地を、新しく開墾することになった。政府が官有地を払い下げ、新たに用水路を作ることになった。これに、私も申し込んで、那須野が原の西の端、伊佐野という地で、ようやく認可を得られたのだ」 「へえ」  難しいことはようわかりません、と言いそうになって、なんとか言葉を飲みこみました。 「大きな農場を作るんですか」 「そうだ。とはいっても、いまはまだ手つかずの山林らしい。私もまだ、現地へ行っていないので、伝え聞いた話に過ぎないのだが。時間が取れるようになったので、来週の頭に行ってみるつもりだ。どうだい、伊代。私と一緒に来てみるかい」 「へえ。あたしでよろしければ、お供いたします」 「そうか。街育ちの伊代には慣れないだろうが、いい気晴らしにはなるかと思ってな」 「あい、すみません。旦那さまのお気を煩わせてしまったようで」 「なあに、気にすることはないさ」  旦那さまはそう言って、肩を揺らして笑っておられます。頭には白いものが混じっていますが、小娘のあたしでも惚れ惚れするような、なんとも男振りの良い殿方です。  旦那さまには、体の弱い奥方さまとお子さまたちがおられます。それに、日本橋には、長いつきあいのある粋筋の女性もいる。そのうえ、あたしのような小娘にも目をかけてくださる、とても心の広いお方です。  もっともあたしは、ただの使用人に過ぎません。男と女の関係にはないのです。残念な気もしますが、仕方ありません。
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