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私は溶解した。 その全てがドロドロに溶けて分解してしまった。 今や私は、大量の泡の中で、無意味な一抹の泡と化したにすぎない。 だが、完全に溶解したはずの、 "私"とは何か? この完全溶解の果てに残った"意識"は何なのか? 随分長い間、悠久の眠りの底にいたような、この"意識"は何なのか? 今、私とは、この"意識"である。 ドロドロに溶解した身体や、細胞組織の消滅と共に、私はこの"意識"そのものと成ったのだ。 だが、この"意識"は、それまでの意識の継続ではない。 この"意識"は、長い間、地下深く眠り続けていたものだ。 まさに今、眠り続けていた"意識"が、悠久の時を経て、復活を遂げたのだ。 "意識"は様々な記憶を呼び戻した。 これまで記憶喪失のように、一度も意識に浮上してこなかった様々な"真の記憶"を、まるで走馬灯のように呼び戻し始めたのだ…。 そう… 我々はかって、この仮面舞踏会が催された城のモデルとなった、明治政府の外務大臣・青木周蔵子爵の別荘である白亜の洋館に多大なる誇りを持っていた。 その他、広大な敷地に建立された別荘の数々に、我らの誇りと未来が託されていた。 ここ、栃木県北部の日本最大規模の扇状地である"那須野が原"。 明治から昭和にかけて巨大な農場が生まれ、様々に趣向を凝らした別荘は、今尚、この地に生息し続けている。 かって、この大規模農場と別荘を作り上げたのは、明治維新を推し進めた元勲や、明治政府の要職にあった貴族たちであった。 貴族たちは"華族"と呼ばれた。 明治政府の政策により、華族の農場は大規模な発展を成し遂げたのだ。 だが、この地はかって、明治の初年の頃まで、人が住める土地ではない全くの不毛地帯であった。 那須野の不毛な原野には、土砂や火山岩が堆積し、中央を流れる蛇尾川や熊川は、水が地下に浸透した、まさに"水の無い川"であった。 このような平坦で不毛の原野を、明治政府は西洋列強に立ち向かいうる殖産興業政策の開拓地とし、その後、華族による農場が、明治13年から20年代にかけて、次々と生み出されたのだ。 これらの華族農場は、西洋式の大規模農法を行い、開墾と牧畜、植林を精力的に行った。 早々とブドウ栽培にも着手し、明治17年には既にワインの醸造が行われていたのだ。 それは、あたかも首都における「鹿鳴館」に匹敵しうる、開拓地への西洋文化導入の偉大なる達成であった。 しかし華族農場を作り上げるために、荒れた大地を開墾していくことは、それはそれは並大抵のことではなかった。 かなりの多くの農場は、採算を度外視した農場主の私財投入によって、かろうじて維持されているようなギリギリの状況であった。 しかし、そのような破産覚悟のギリギリの戦いに農場主たちが挑んでいったのは、新しい国家を建設したいという熱意だけではなく、何より、この"那須野が原"という土地に対する深い愛情によるものであった。 農場主は自らの身をこの地に捧げた後に、この土地に葬られ、多くの農場主たちを祀った神社が今まだ多く残されている。 こうした献身的な熱意により、那須野が原は大きく開拓されていったのである。 そんな華族たちの大規模農場の象徴とすら言えるのが、かって大蔵大臣や総理大臣を歴任した松方正義公爵の"千本松農場"である。 松方は水利が少ないこの土地に、欧米風の大農法を適用し、西洋農具を導入して、最盛期の総面積1600ヘクタール(現在800ヘクタール)の広大な土地を開墾したのだ。 その広大なる千本松牧場には、放牧場と飼料畑、平地林があり、その往時の原形は今尚、垣間見ることが出来る。 その一角に建つ別荘は、一見、石造建築のような、重厚な誇り高さを湛えている。 華族たちは、元来、人が住めない不毛地帯の原野に農場を開き、やがては、人を集める新しい町をも生み出していった。 彼らは、鉄道や国道をこの開拓地に作り、農場内を区画整理して、開拓に携わる移住者をも迎えた。 そして開拓には必要不可欠な水源の確保のため、明治18年には"那須疏水"が生み出された。 那珂川から流れる水は、那須野が原を四つに分かれて大地を潤し、その先に華族農場を設営したのである。 そこからの支線による水の流れは、開墾によって作られた田の、今も水源足り得ている。 華族農場から始まったこの土地の大規模な開拓事業は、いよいよ明治から昭和にかけて、戦後の開拓団に継承される。 その時代に入ると、ついには開拓に不向きとされた丘陵地に旧軍用地や国有林などが拓かれるまでになり、かっては、全くの未開地であった那須野が原は、ついに完全なる開拓を達成したのである。 明治期からの牧畜は、羊から乳牛に変わり、技術革新を重ねて生産性を向上させ、ついには生乳生産本州一の大酪農地帯となったのである。 もはや、この"那須野が原"のこの地に、全くの荒野はない。 勿論、大自然の美しさと大地の恵みは存分に存在するが、しかし、その大自然の静寂の中に、かつての華族たちの欧州文化実現への果てしない夢と、近代国家建設に向けられた献身的な情熱が息づいているのが、本当の意味での"那須野が原"なのである。 私は、 そのことを、 長い間、忘れていた。 そのことの記憶と誇りを、その意識を、これまで、どこか忘却の彼方に葬り去ってきたのだ。 私は溶解した。 だがワナワナと震えながら痙攣し、大量の泡の中でドロドロに溶解しながらも、同時に、忘却の彼方に葬り去った、我々"貴族の魂"を、 今ここに取り戻した。 我々、"貴族の魂" それは、溶解した泡の中から、少しずつブクブクと新たなる泡を生成させ、その膨れ上がっていく"新たなる泡"の膨張の果てに、一つの、全き肉体を、今また生成せしめんとしていた。 ブクブクと膨れ上がった"新たなる泡"から、一つの全き肉体に生成された、その瞬間、 私の目は開眼し、暗黒の世界は消え去り、遮断されていた視界が強烈な光の中、大きく開かれていった。 その視界の先には、あの大量の泡を放射していた、向井田という転校生が、一人立っていた。 彼は私を見つめながら、満面の笑みを浮かべて、私にこう言った。 「お帰りなさい。我が大地に。お待ちしておりました。我が誇り高き、"貴族の魂"の同胞よ」
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