4 一月二十五日

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4 一月二十五日

 (注釈)エミリが話す内容をよりドラマ仕立てに感じたく、一華が想像した―。  エミリは後悔した。なぜ今ここに居るかを。日本中の大学生ならば参加できるイギリス文学クラブに居る教え子―六花は別の大学所属だが、クラブに在籍している教員という立場から見れば、どの大学に居ようが教え子に間違いはなかった―  その可愛い教え子の懇願だからと言って、一家の一大事に全く無関係なものが混じるというのは非常に心苦しかった。  そういう点では、六花の彼氏だという立場で参加している高瀬 夏生も同じ心境だろうと思っていた。  夏生も、エミリ同様落ち着きなく、とにかく早く終わってくれと時計を何度も見ていて、お互いそのたびに顔を合わせ、苦笑いを浮かべあった。  六花はばかばかしい一件に付き合っていることへの苦痛から少しだるそうな感じで座っていたが、その祖母、大奥様のように船は漕いで居なかった。 「あの、そこでお休みになられますと、風邪をひきますよ」  というと、最初こそ、「うるさいねぇ。あたしにだって権利はあるんだから」とはっきりと文句を言っていたのに、二十三時を少し回ったころには、その返事すらままならず、最後には、前のめりに倒れるようにして眠ってしまったので、執事兼雑務の長井と夏生が寝室に運んでいった。  つまりこれで、油井 公人死の遺言を受ける権利が六花一人になったわけだ。  エミリは六花を見た。六花はどこか他人行儀なそんな顔をしていた。大金が入る興奮や、その大金に課せられる税金の不安とか、はたまた、大金の使い道、それ以上に、お金を手にしたとたん群がってくる人の波。そんなことなどを考えているようには見えなかった。ただ、ぼんやりと、暑い、寒い、痛い、苦しい、そんな表情すらなく、ただ座っていた。  二十三時五十分。エミリがもう、いよいよだと重い顔を上げたのと同時に夏生も顔を上げた。今までと同じように、居心地悪いわね。という言葉を含んだほくそ笑みを投げようとした相手は、今まで見たことがない、いや、あれだー。  きれいな水色の黒点。  その黒点の汚れが水色を塗りつぶした瞬間だった。 「ざまぁない」  そう言って夏生はポケットから封筒に入った紙を取り出した。役所でもらえるあの青い封筒だ。それから紙を取り出す。戸籍謄本だった。 「調べてみればいいが、俺は、油井 公人と、高瀬 春子の息子、秋史の双子の弟だ」  と言ったのだ。  エミリは六花から何かが落ちたのを見てそっちを見た。それは六花の目からこぼれた涙だった。六花は事前に聞かされていたのだ。  あれほど肌を重ねたい、キスだけでもしたいと願った相手が異母兄弟だと―だから、あの、虚空な顔で座っていたんだ。  夏生はせせら笑いながら、自分がやったことを独白し始めた。 「ほら、二十五日が終わるぜ。  5,4,3,2,1.  条件を満たしたのは、俺と六花だけだ」  夏生はそう言って両腕を振り上げて叫んだ。  夏生の叫び声が終わると、そこは無音になった。夏生が弁護士のほうを見て、さっさと手続きをしろと言いそうだったので、思わずエミリは言った。 「あなた、六花さんと、付き合っていなかったの? 好きじゃなかったの? こんなことをするために、六花さんをだましたの?」  エミリの最初の問いには何の表情も崩さなかったが、だましたのか? と言った時の、居たたまれない顔に一瞬怯んだ。 「しようがないじゃないか。あの男は、母親を、春子と俺を追い出したんだ。跡取りである秋史さけそばに置いて。  そのおかげでどれほど苦労したか。母親は日に一時間、二時間程度しか寝ないで働き、体を壊した。今も薬が手放せず、働くこともままならない体を押して内職している。  貧乏だろうが構わなかったさ。近所の人が助けてくれたし、それを理由にいじめるようなやつはいなかった。だけど、世間はどうだ? 母子家庭で、父親が誰か解らないという理由で就職できないとかってあるか? 父親が認知しなかったからだと母親は言ったが、そうじゃなかった。  油井家の人間だったから、だから、認めるわけにはいかなかったんだよ。  俺はおかげさまで頭はよくて、中学卒業してから、高校からずっと成績優秀者のみの特待奨学生に選ばれた。そのおかげで大学では、マーケティング学び、推薦で会社に入れた。  しかも、仕事をしながら書いた論文が世界的に評価され、フランスで行われた論文大会に招待された。  あの三か月。フランス語で論文発表をするからとフランス語を特訓した三か月は、とても有意義だった。  パスポートを取るために戸籍を取って、そこで初めて父親を知った。  油井 公人と言えば、経済界で知らないものは居ない。そうさ、俺の論文がフランス大会に出る。という記事が載った同じ雑誌に、お前らは載っていたよ。  若いころやんちゃして愛人に産ませた子供をすべて引き取っているので、賑やかなんだ。と言ってた。  愛人の子供は引き取れるのに、正妻が生んだ双子の片割れは要らなのか?  その写真には六花も載っていた。  その時はどうこうしようなんか思わなかった。怒りはあったが、どうにかできるわけない。なんせ、うちの会社と、油井グループは接点がなかったから。  だが、運命は味方した。  フランス大会で論文発表する際、会社が特別に自由時間を含め、二日間の有休をくれた。おかげで論文発表後、時間が出来た俺の前に、フランス語が解らず、フランス人に絡まれている六花が居た。これはもう、俺に復讐をしろと言っているのだと思った。  六花は白いワンピースを着ていた。夏休みだったから、辺りがキラキラしていたけれど、それ以上にキラキラしていた。黄色いリボンがついた帽子をかぶってた。ああ、こういう子がまだいるんだと思った」  夏生は頭を振り、 「六花を助け、フランス語ができるからと案内を買って出た。六花は、十九歳のくせに、金持ちの友達とフランスに来て、彼女たちはフランス男に付いて行ったが、行く気になれず、友達とはぐれていた。  日本語が話せる相手に会った安心からか、六花はすっかり信用し」  夏生の顔が少しゆがむ。 「日本に帰ったら再び会おうと別れた。  すぐに連絡してもよかったが、多分、一日、二日こちらからしなければ絶対にしてくると思った。それほど六花は男に慣れていなかったから。  案の定、電話がかかってきて、あの時のお礼がしたいとランチに誘われた。男をランチに誘うなんて非常識だと思ったが、そのほうが来てくれそうだと思ったといった」  顔に影が走る。 「俺は復讐をどうしようかと思った。だから、まず、こちらのことを、伝えた。  母子家庭であること。父親は早くに死んだこと。母親が苦労して育ててくれたので、精一杯勉強し、特待生となって大学まで行ったこと。マネージメントの会社や、その世界ではそこそこ評価してきていることをそれとなく伝えると、六花はただただすごいと褒めた」  やっぱり、影が走る。 「六花はこの油井家が異常だと話した。  もっとも家で嫌いなのが、ばあさんだと言った。とにかく無性に嫌いで、生理的にダメだと言った。一応、おばあさんだから、そんなこと言っちゃいけないよ。と言ったが、会ってみたら想像以上に嫌なばあさんだった。  俺は考えた。人殺しをしてまで陥れる気は無い。だいたい、俺のしたことが犯罪になることはない。俺がしたことだと解ったとしても―。なぜなら  茂道の会社の手抜き工事を告発したのは奴の部下だ。奴の傲慢な態度に我慢のならない部下に、告発することをだし、  美寿子に至っては俺が探偵を雇ったんじゃない。男と歩いているところを見た、あいつの娘が探偵を雇ったんだ。俺は、娘にだけだ。そして、いつも使うホテル。写真を送ったのも、その娘だ。  そば蜂蜜のお菓子を送ったのは、正真正銘、以前油井 公人が世話した男だ。油井 公人が死んだことを聞いて驚いていたが、すでに四十九日も済んでいるので、線香とお菓子を送る方がいいと思うとだ。ただ、あの町で今売り出しているのがそば蜂蜜入りのお菓子だということが不運だっただけだ。  ニシンに至っては、あいつ、秋史の腐っていただけで、同じ入れ物に入っていた、同じものだった。  ほら、俺が手を下した証拠ないし、俺は助言をしただけ、金を貸しただけ、亡くなったことを教えただけだ。俺は何もしていない」  夏生の誇らしい顔に、弁護士も「確かに」と言ったが、その言葉にはふつふつと苛立とや、怒りをにじませている気がした。 「さぁ、俺が本当に油井 公人の息子で、当然、遺産の権利者だと証明してもらおう」  一華の前に座っていたえみりは静かに息を吐きだし、  「それが―  それが、二十五日の二十三時五十分から、二十六日の一時までに起こった全てです。  私は茫然としたまま座っていました。  夏生さんは大笑いをしながら、気分よく眠れると部屋を出て行きました。  六花さんを筒井さんが支えて部屋に連れて行き、長井さんに促され私も立ち上がりました。  私は弁護士に「もし、夏生さんが本当に息子だったら、権利はあるんでしょう。でも、罪には問われないのですか?」と思わず聞きました。 「夏生君が言ったように、不正工事を内部告発すべきだと助言したことは、結果的にその工事を止め、大事故を防いだということになります。不正工事の話をしたのが夏生君ならば、会社の内部機密漏洩ということで罪にはなるかもしれないが、夏生君は相談を受け、それはよくないと、正義を行う義務にのっとった判断ですからね。ならないでしょう。  不倫の一件は、多分、なぜ娘さん―確か、高校生でしたね、―が、なぜ母親の不倫を知ったかという点はもしかすると、その娘さん自体覚えていないかもしれないので、夏生さんが話した証拠にはなりませんよね? たまたま街で見かけて、独り言、不倫の証拠が欲しい。なりを話しているのを聞き、そういうことなら探偵を雇えばいい、お金なら貸す。と言っただけだと言えば、見知らぬ子供に貸すのか? という不信感はありますが、子供を不倫現場が目撃できる場所に連れ出し、探偵を雇わせたわけではないのならば、その立件も難しいでしょう。  お菓子や、料理にしても、我々も同じものを食べています。彼が二人のアレルギーなどに詳しかったとしても、それを送った相手がいます。差出人の住所がおかしいのは何らかのことをした可能性がないわけではないが、相手に聞いて住所を聞いたとしましょう。聞き間違えた、書き間違えたは、罪ではないでしょう。  大奥様の薬にしても、いつも飲む時間に服用しただけのことです。いつも薬を飲むことはみなが知っています。いつも通り薬を飲んだ。今日は眠剤は飲まない。と自分で避けているのを無理やり飲ましたのなら、強要罪ですが、あの方はご自分で、ご自分の意志で行動する人です。自分で眠剤を飲んだ。それは、罪ではないでしょう。  つまり、彼は何もしていない。無実です。ですが、何かしらのことを起こしているのでしょう。ただ、良心の呵責に訴えるということしかできません」  弁護士は六花さんが出て行った姿を思い出しているかのようにドアのほうを見ました。  私たちが居たたまれないのは、六花さんのことがあってです。六花さんは本当に夏生さんが大好きで、愛していました。夏生さんだって同じだと思っていました。疑う必要がないほど、お互い本当に好き同士だと思ていました。あれが復讐のための演技だとは思えないんです。  でも、夏生さんと六花さんは異母兄妹です。結ばれることはできません。私、あの家族、茂道さんや、美寿子さん、清明さんに秋史さんたちが病院へ行っている現状よりも、夏生さんが六花さんにした行為のほうがよほどひどいと思うんです。  そして、今日一日、六花さんの側に付いていました。  六花さんは、だから夏生さんは手を握りたがらなかったんだ。キスをしなっかったのだと泣きっぱなしで、慰めようがないじゃないですか。  さすがの夏生さんもあのままいるのは苦痛と見えて、夕方には自分の家に帰りました。でも、三十日の遺言の全文開示には家のものはすべて立ち去れと言って―。  だから私も帰ろうとしたんですが、本当に疲れたし、とにかくしんどくて、古書店によって、はじめて通ったこの商店街で、ディオゲネスを見つけたんです」  エミリはそう言って深く、深くため息をついて時計に目をやって、 「もう、一時……、一時ぃ」と頭を抱えた。 「あ、お肌を気にしてるなら、上の部屋に泊まっていきな。それとも帰るなら、実に送らせるよ」  白戸はそう言って引き出しから鍵を取り出した。 「あれだね」一華が声を出した。「遺言、全文が気になるね。本当に、夏生君は復讐を遂げれるのかね?」  エミリが抱えていた頭を上げる。 「どういうことですか?」 「面白いなーと思ったことがいくつかある。まず、  夏生君のあの執念深い復讐心。  六花さんが他の誰とも似ていないこと。茂道と美寿子は兄妹なので似ているだろうけど、母親が違う、清明さんや、秋史、ましてや夏生君と似てない。とは面白いよね? どこか似ているパーツがあって不思議じゃないのに。  遺言書をそうやって分けて公開する理由と、そのくせ、公開日を決めていること。  子供たちの名前。  マザーグース。  そして、公人氏が言った、「母は僕を捨てて疎開した」人を、責めもせず家に住まわせている理由。  面白くない?」  一華の言葉に、エミリは、そのいくつかは自分の興味があるが、「なぜ?」と考えて答えが出ることはないので、脳が辟易しているのだと言った。  エミリはすまなさそうに自宅に帰ることを選択し、実は快く車のカギを握り、上着を羽織りながら、一華の頭を軽く小突く、 「ところで、お前、なんか、考え付くのか?」実の言葉に一華が笑う。 「そこまで絞ってんだ、なんか考えがあるんだろう?」  にやりと笑い 「でもね、もう遅い。今は眠気のせいでなんだってつじつまが合う気がする。一晩考えてから話すよ」 「あの、私も、私も聞きたいです。推理でも、想像でも。私にはこれ以上のなぜに閃くものがなくて、」 「いや、でも、しょせんは他人の推理で、」 「いいんです。それでも。当面は解決できて考えなくていいわけですから。明日、明日何時ごろくればいいですか?」  エミリが一華に迫るように聞くので、「じゃ、じゃぁ、」と時計を見ると、 「十一時においで、そんで、またラーメン食べよう」と白戸が言った。  エミリは大きく頷き、「おいしかったので、明日も行けます。では、明日十一時。今日は、ごちそうさまでした。それから、話を聞いてくださってありがとうございます。お疲れさまでした」  と、腰をほぼ90度曲げて帰っていった。 「それで? 妙案が浮かんだ?」 「言ったでしょ。今はどの説もこじつけられるって。もう寝るよ、叔父さん」  一華はそう言って出て行った。白戸は片手をあげて、両腕を伸ばし「さぁて、寝ますか」と立ち上がった。  一華は自分の部屋がある三階へと階段をのぼり、302号室の戸を開けた。
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