ロクデナシ英雄譚

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ロクデナシ英雄譚

『何RTで性癖を暴露する』 『好きなものを挙げれば人柄が分かる』  という、ツイッターの上での遊びに嫌悪感に似た感情を抱くのは、なにも自分が潔癖な人物だからではないだろうなあ。というのは常々思っていた。  潔癖でないなら、性癖――文脈的には“嗜好”や“フェティシズム”などと正すのが良いのだろうが、この言葉遊びが気に入ったのであえてツイッター上で流行した“性癖”のまま語らせて頂こうと思う――を語ることにも騙ることにも何も不都合は無いはずなのだが、しかし私は他人が行う遊びを幇助することはしても、自らがそれをすることはしなかった。『見た人もやる』と付いているものもあったが、徹底して無視していた。  いや、何度か反応はしたか。 『自分には誇れる性癖がないから』と  誇れる性癖とはなんだ。と何年か前の私に苦言を呈したくなる人も居るだろう。しかし事実として、本当の本気で自分をさらけ出してしまえば、私はすぐにでもロクデナシの烙印を押されて、友人の1人や2人なんて簡単に失えることだろう。という確信はあった。本来性癖――フェティシズム――とはそういう踏み込んだ内容のはずである。伏せることそのものには、何の違和感もないだろう。  しかし確信はあったのだが――確証はしてなかった。  どういうことかといえば、私は『自分の性癖をちゃんと理解していなかった』のである。自分自身が何を好ましいと思っているのか、しっかりと把握出来ていなかった――わけではない。正確に言うなら、『好ましいと思うものが多いから共通項が見出しにくかった』といったところだろうか。胸を張って『これは好きですが、それ以外はどうでも良いです!』ということが出来ない――ベスト10と候補を募ってランクをつけることさえ難しかったと思う。 『性癖は分かりません』 『ですが、この漫画のこの描写は好きです』 ――こう書き添えて、他人に判断を委ねるというのも手ではあっただろう――というか、本来は『他人から見たら、君はそういう性癖がありますよ』と指摘しあうことで、話題にするのが目的だっただろう。  だが私はそれをしなかった。  盛り上がる友人達を見て、その輪の中へと混ざりたいとは思ってはいたけれど、しかしその友人のうち1人2人を失う覚悟をしなければ出来ないことだと(何故か)思い込んでいたし――自分で分からないものを、他人が見つけ出せるわけがないと思い上がっていたのも事実だ。  つまり私は。  他人を信用していなかった。 †――†  しかし。性癖が分からなくとも、好みの作品くらいはあるだろう? と、言われれば否定はしない。  無論、こうして小説形式の作品を発表しようと身の程知らずな行為を続けている身だ。どんなものにせよ本という媒体をその時々で買ってはいる。漫画を、小説を。衝動で、惰性で。買ってはいるし、読んでいる。  好みの本と聞かれると、これまた優劣は付けられないものだが……こと好みの作家と言われると、私はN先生かなあ。というほかにない。当然ながら実在の人物なので、万が一にも先生に迷惑をかけることが無いよう仮名にするが、まあ素人ながら文章を先生の文体に真似ているので、一度でも先生の文章を読んだことがあればすぐに気づけるだろう。  本筋から少し脱線するが、先生の登場人物には酷く偏りがあると思う。  シリーズ物は正直、ファンは名乗れないレベルで追いきれていないのだが(先生は速筆家で有名なので、少し読書以外の趣味に没頭すると3、4作は新作がでているように思う)しかし図書館に並んでいる、短編数作には 『人の気持ちが分からない少年(少女)』  あるいは 『人間より人間臭い人外』  このどちらかが、主人公格として出てくるように思う。  もっともこの傾向は、私の勝手なイメージに過ぎない――あれだけの作品を刊行している人なので、語り部が違えばイメージも違うかもしれないし、本人はこの(1ファンの身の程しらずな)プロファイリングを一蹴するかもしれない。  あくまで私はそう感じた。  それだけのことである。  しかしプロの作品に偏りがあると感じたということは、思いのほか興味をそそられる事実でもあった。プロでさえ、登場人物に偏りが出るのだ。好ましいと思うキャラクター性に偏りが出ているのだ。アマチュアである自分の作品を見返したら、自分の好み、性癖、主義主張が分かるかもしれない。と。そんなことを考えて―― ――本題に戻る。  性癖を探すために、自分の作品を見つめなおす。  恥ずかしい汚点を探すために、黒歴史を見返せと言っているようなものだと、きっと誰かは言うだろうけれど。私はその気持ちは良く分からない。  過去の作品を未熟で恥ずかしい、見るに耐えないと感じたことは勿論あるが、本来それは当たり前である。どれだけ全力を出したといった所で、中学生の頃の作品は中学生の作文でしかないし、高校生の頃の佳作は、やはり佳作でしかない。 大学生の力作や、ましてやプロの作品などと比べて、第一線で活躍する方々の作品を読み、肥えた目では見るに耐えない。と書くならば。そりゃあその行為は間違っていると言わざるを得ないのではないだろうか。  それに。未熟と感じるならば、それは“今の自分”が“そのときの自分”より老成した証だろうと前向きに考えられはしないだろうか――もっとも、私は過去の自分より成長できたことなど一度たりとて無いと言い切れるレベルで退化している人間なのだが。  いけない。長くなった。話を戻そう。  本題に戻ると言ったからには、私は私の性癖について語るべきだろう。  いかにも仰々しく書いたものだが、『今から全裸になります』と宣言しているようなものだ。通報されても文句は言えない。  結論から言えば。  どうやら私は人間が嫌いらしい。 †――†  性癖、嗜好とは真逆の場所に着地しているではないか。  そもそも最所の方に書いた結論と同じではないか。  時間を返せ。 ――などと言われるかもしれないが、まあ落ち着いて欲しい。まだ2000文字程度である。無駄にした時間は多く見積もっても5分程度だろう。  ならばあと少しくらいは、お付き合い願いたい。  人間が嫌いだ。と書いたことには、それなりの根拠がある。私の作品には極端に人間が登場しない。  データどころか作品単位で失われた作品もあるので、記憶の限りと最近の作品の傾向から、出来る限り自己分析を重ねた結果である。当然ながら二次創作を省いた、私オリジナルの作品の傾向として 『迫害される人外』  が多い――というより、ほぼ全てであった。  私が思い出したのは、人類が滅びた後に青空を見に行く改造人間の話だった。切られる寸前に走馬灯を見る桜の老木の話だった。思い出に触れながら壊れ行くロボットの話だった。寄生することを拒む寄生植物と座礁したマグロの恋の話だった。  他にも色々あるが、まあ多い。普通の人間が出る普通の作品を書けないのかというレベルで、私は人間を書いていない。  唯一、処女作の『奴隷と身分を捨てた貴族』は身分差モノかなとも思ったが、よくよく考えたら奴隷は”物”であり“者”ではない。今では考えられない価値観だが、そういう時代の話を確かにイメージして書いていた。  奴隷、人外、擬人化あたりが性癖なのか、と言われると、実はそうでもない。そういう作品ばかりをフォローしているとは言いがたいし、自分の作品内においても彼らが当人の思惑は置いておいて、普遍的な幸せを得ているとは言いがたいからだ。というか大体死んでいる。  死を目前にしたテーマも多かった。だが、それだけならば人間をテーマに扱っても良い。人外である必要はどこにも無い。  いつだったか、小説を読んだ友人からは可哀相な人間が性癖なのかとも尋ねられた。確かに人外といえども、擬人化するなら人として扱うべきである。その観点で見るなら大体のテーマで不幸な存在が出ているのでありそうだった。しかし、その時も今も、私の腑には落ちなかった。  恐らく、”迫害”と”人外”の二つが合わさっている必要が、自分の無意識下であったのだ。  人間が、人外を害しておいて、それでも人間を許そう、懸命に幸せであろうと願う人外の姿に、何処か心惹かれるものがあったのだろう。そうありたいと、感情移入でもしたのだろう。  N先生が作品において、『心を理解できない少年が心を得るまで』を書く比率よりも恐らく高く、私は『迫害されている人外が死ぬまでの期間を懸命に生きる』というテーマで書いている。そもそもの絶対数が違うという話は置いておいて、だ。  ついでに語るなら、私の物語では人間は常に悪役であり悪である。  彼ら――私の物語の中の人間達は、自覚的かどうかはともかくとして『常識や良識に従った結果、人外側を害する存在』であることは決定付けられている。たまには人間側で迫害しない存在も出すが、そういった場合は常に『人外に興味を示す変わり者』だ。  私の作品のその他大勢は、人外を迫害するために居る。  そんな風に書いていると読んでもらって差し支えないかも知れない。  ここまで書いて、私はようやく自分の性癖の話に入ることが出来る。ここまではあくまで要素だ。あるいは、自分の作品の傾向だ。現実の趣味嗜好、あるいは他人の作品を評価する判断基準には、おそらくなってはいない。  けれど、冒頭に書いたように『人間が嫌いで、すなわち性癖ではないのだから、物語に人間を登場させないのでは?』と論じたりする分には、正常な話の運びだろう。であるならば、『これが性癖だから、物語に多く登場させるのでは?』というのも、成り立ちそうなものだ。  ただし、先に述べたように、私は人外が好きなわけではなかった――となると。『重要なのはもう1つのほう』なのだろう。  すなわち、  私は、  人間が『モノ』や『迫害される人外』に変わる瞬間に――堕ちる瞬間に、最も心が躍る人種なのかもしれない―― †――†    なるほど。  五臓六腑全てが腰の辺りにまで落ちそうな感覚を覚えながら、私は頷いた。  実のところ、性癖が分からないとは言ったが、好みの作家が居るのと同様に――好みの絵師さんも、当然ながら居た。  その作品内容はあまりにセンシティブなので直接は書かないが――まあ、敗戦して断頭台へと消え行く瞬間だとか。命乞いを銃弾でかき消す瞬間だとか、あるいは、自刃し果てる瞬間だとか――それらよりも、数段過激な作品を、私は多くフォローしていた。  いやいや、ならばそれを、最初のツイッターでの遊びの時に書けば良かったではないか。  それを性癖だと偽っていればここに4000字も書かずに済んだではないか。  そもそも作品の中盤になってそんな重要なことを明かすのは、読者に対してフェアじゃない。などと思うかもしれないが、  しかし人が死ぬこと、虐められることそのものは、やはりどこか違うと告げる声があった。単なる要素に過ぎないと。その一部だけで早合点された結果、あの作家には殺人願望があるなどと、一分たりとも思われたくなかった。  それに、あまり人目に触れることを良しとする界隈ではない。最悪自分がロクデナシの烙印を押されることを許容しても、他の方は分別をもって創作に臨まれている。遊びなどでおおっぴらにするものではないのは事実だろう。  だからこそ、 『自分には誇れる性癖がない』  と断じていたのだ。それは、界隈の不文律も踏まえてのことだった。  しかしフォローしている絵師さんの絵を見せながら、こういうのが好きですと宣言する――それ以上に分かりやすく、他人に性癖を語る手段を、私は持ち合わせていなかった。なにせ絵を見せながら語れないとなると、『自分の性癖をちゃんと理解していない人間が、なぜ好きかも分からない作品の対して好きでもない要素を挙げている』という状況に陥りかねない。それではあまりに盛り上がりに欠ける。  そもそもアニメなどで、前述したセンシティブな要素を含んだ作品は深夜帯を含めてもそう多くは無いだろうし、事実そういった内容を含まない作品を、私は好きになったこともある。けれど、その作品のどこが琴線に触れたのか、やはり言語化は難しかった。    だが、N先生の作品を見て、自分の作品を見返して。4000字にも渡る遠回りを経て――10年かけて『自分は人が人外に変わる瞬間にカタルシスを感じる人間だ』と仮定した時。  ああ、そんなもんか。  そう呟いていた。  人が人外になると書くと、やはり特殊な性癖に思えるのだが――英雄が、人の枠を越えて神の座に辿り着くと書き換えれば、それこそ神話の時代からある物だ。なるものが正しき神であるか、悪しき神であるか、天使であるか、悪魔であるか、動物であるか、死体であるか、鉱物であるか、植物であるか――その程度の違いでしかない。  創作の中で人間は、時に自分の意思で、時に誰かのきまぐれで、時に報酬で、時に罰として。およそありとあらゆる人外に成り果ててきたことだろう。好ましいと思うものが多くて当然だ。何せ『行動の結果によって人の外見が変わる』などというものは、N先生だって使う作劇の基本なのだから。  つまるところ、これは異常でもなんでもなく。  英雄譚が好きな、唯の人間嫌いのお話だった。 †――†    何故こんな話をしたのか。  性癖という言葉を使い、恥ずかしい部分を開け広げてまで。  ツイッターやハッシュタグという話題を取り上げたのは、こうして言語化する術を得たことで、『見た人もやる』と添えられたタグの約束を果たしても良いかな。という気まぐれを起こしたからだが――しかしツイートではなく、小説形式にしたのには相応の理由がある。  コレは私にとっての『遺書』である。  誤解はしないで欲しいが、書き上げたからと言ってすぐさま自ら命を絶つつもりは毛頭ない。いずれは死ぬつもりだが、それは今すぐではない。かといって、不勉強なことにこの他に形容が見つからないのである。  遺書。書き遺すもの。  この作品が他者にとってどういう影響を及ぼし、どういう視線を向けられるのかは――想像に難くないのだ。私が友人を1人2人失うと評したのは甘いもので、結局は先ほどの要素だけ挙げ連ねて『危険思想と揶揄されて投獄されますよ』『あなたのような異常者は死んだほうが良いのではないですか』などと、善意の第三者に言われれば否定は出来無い。  それでも書きたかった。  書いて、遺したかった。  誤解されても、誤読されても、奇異な視線を向けられても、嫌悪の対象に見られても、ロクデナシと罵られても。これは『隠すべき異常な性癖』なんかじゃなく、ただ『人がモノに変わる瞬間が好きなだけだったんだ』と書いて置きたかった。時間で流れてしまう情報の海に投げるのではなく、誰にでも見える場所に置いておきたかった。  それは普通のことなんだ、と。  誰かに認めて欲しかった。  私が今、この作品を書き上げたことで救われる人が居てほしい――なんて言うほど、私は人間が好きではないけれど。ただまあ、14歳の私がずっと作品にぶつけるしかなかった感情を、今なお抱えたまま過ごす人が、人間に迫害されるのに疲れて“遺書”を書いてしまう前に、この“書き遺し”を読んで欲しいとは、少しだけ思っているのだ。
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