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「はい、これで最後」
アッシュがシンク台に大きな皿を3枚置いた。
「ありがとう」とシエラは彼がこれまでの間に運んできた食器を洗いながら我とはなしに謝意を示す。
それを機に自室へ帰るはずと利己的な予想を立てていた。
だが帰るどころか彼は無言でスポンジを手に取り、共に食器を洗いはじめた。
肩までの髪をギュッと一本に結ぶ張りきりようだ。
「こういうの嫌いじゃないんだよね」
随分と陽気である。夜型の男なので遅い時間になるとテンションが高くなるらしい。
まして隣には彼好みの女がいて、ふたりきり。食器用洗剤の香りも充満し、シャワールームを連想させる。シチュエーションは完璧だ。
そんな彼とは対照的にシエラは元からの儚げな顔に深刻さを滲ませてチラリと男を見上げた。
「アンタたちのすべてが悪いとは言わない。でも……こうして手伝ってもらって申し訳ないけど、ワタシはアンタがいい奴だとは思わない」
自分は酷い話をしているとシエラは自覚した。
けれど本来ならそれでいいはずだ。同情するような相手ではないのだから。なのになぜか罪悪感を抱いてしまう。
戸惑いを見せるシエラを横に、アッシュは同意してみせた。
投げやりにも感じられる、彼女より冷酷な意見だった。
「いいんじゃないの?無視するならすればいいし勝手にすれば。オレのこともどうとでも思ってくれていいし」
落ち着いた、というより冷めた声。ウィルの温かく包みこんでくる声とは対極のものだった。
彼への腹立たしさはシエラになかった。カタキ相手に対し自分でも驚くほどゆとりを得ていた。
今なら色々な真相が聞けそうな気がする。特にこの男にならウィルが頑なに拒む事件の真相を。
どちらかといえば寡黙な彼女の口数は自然と増えていった。
「……2年前、アンタもあの場にいたのか?実行犯なのか?」
「いたよ。多分一番多く殺し放火した。その点君の最大のカタキはオレかもな」
2年前。それのみで話が通じた理由は、シエラがあの事件の舞台レスタの住人であると隊長ウィルから聞いていたから。
復讐を決意するほど懸命な女の表情を確認してみたくて覗き込んでみる。さて怒り狂っているか。
しかしシエラは胸に何を思ったか、真相も忘れてしんしんと雪降る夜のように静かに泣いていた。
両手が塞がっているので拭うこともできず、頬を伝う涙をそのままに下を向いて食器を洗い続けている。
数多の女を泣かせてきたアッシュが我を忘れてその泣き顔に見惚れた。涙を利用したキスや暴行は頭になく、ただ優しく抱きしめたかった。
自分でも馴染み薄な感情から男は意識を戻す。シエラが鳴咽を交えて語り出したのだ。
「……ワタシは、カタキも討てず、そのカタキ相手とこんなことして、仲間になんて思われるだろう。生き残った人たちから、なんて言われるだろう。どうすればいいのだろう」
悪びれもせず事件を語る男。けれどシエラの敵意は彼ではなく自らへ向かった。
喉の奥が痛い。胸が痛い。涙も溢れて止まらず恥ずかしさも込みあげる。
温もりが欲しい……
復讐者の脳裏に浮かんだのは、いつも優しい笑顔をくれる黒い髪と瞳のあの男の顔だった。
シエラが他の男の温もりを求めているとも知らず、アッシュはできる限り慰める。
言葉を変えればそれを『口説き落とす』と言う。
「悲しむ気持ちはわかるけど、オレはそんな感情を知らないから正直アドバイスはできない。ま、カタキ相手からそんな言葉をもらっては増々困惑させるだけか。男として抱いて慰めることはできるけどね」
「…………」
「呆れさせた?悪い、場違いだったかな」
「片付けが終わったら」
「ん?」
アッシュは少し期待する。シエラの次の言葉を待った。
「ひとりで寝てほしい」
諭すように穏やかな、今までにないシエラの口調。
無意識であろうがなかろうが、どちらにせよ手強そうだ。アッシュは泡まみれのスポンジで黙々とグラスを洗った。
そしてシエラは考える。この後に起こるであろう彼との予想もつかぬ出来事を。
「後で行く」と言ったその相手ウィルの声を再び心に響かせながら……。
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