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3・破られた平穏
意識を現実に戻し、石の構造物とその周囲に目を凝らす。
辺りは落ち葉や草で覆われているが、それに隠れるように白い小石のようなものが散乱していた。注意深く観察すれば、それらが小鳥やネズミなどの小動物の骨だと
いうことが分かるだろう。
自然の中であれば生き物の骸を見かける機会もある。問題はその数だ。自然の摂理と片付けるにはあまりにも数が多い。
その光景に、男は安らぎを覚えた。なぜなら――
と、強烈な圧を感じて男が振り向く。
そこには、黒で塗りつぶされた人影が立っていた。まるで、周囲の闇から染み出した墨の塊のような。
異様ではあるが、よく見ると人間のようだ。背は男より一回り以上小さい。墨のように見えた黒のレザーコートを雨合羽のように羽織り、頭には大きなとんがり帽子を被っている。立てられたコートの襟と帽子の広いつばの隙間から見えたのは、サングラスをかけた若い女の顔だった。
「だ……誰だっ?」
男は思わず一歩後ろに下がり、得体の知れない女に向かって声を上げる。
しかし、女はそれには答えず、懐から何かを取り出すと水平に薙いだ。続けて小さな声で何事かを呟くと、女の周囲の空気が蜃気楼のように揺らめく。それは、眠っていた何かが覚醒し、うごめくような。
女が顔を上げ、サングラス越しに男に視線を向ける。その奥の瞳が蒼く光るのを見た男は、自身でも訳が分からぬまま背中を向けて逃げ出した。
男は逃げた。湿った地面を踏みにじり、落ち葉や枝を蹴とばす足音も気にせず、ただ、急いでいた。
天然の障害物だらけの斜面を前のめりに下りながら男は自問する。
あの女は何者だ? いつからあそこにいた? 何のために?
しかし、漂わせていた忌まわしい気配を嗅ぎ取った男の本能が告げている。
――あれは、俺たちの平穏を乱す術の使い手だ。
のんびりしている暇はない。一刻も早く瀬奈を見つけて、急いでこの地を離れなければ。
しかし、瀬奈は一体どこにいったのだろうか。そもそも、観光地に指定されるほどの小さな山で、捜索隊が人間一人を何日も見つけられないなんてことがありえるのか。
以前から頭の片隅でくすぶっていた、嫌な予感が現実味を帯びてくる。
――失踪の理由は遭難ではない?
もしそうなら、山を駆けずり回っても時間の無駄だ。
今はなんでもいいから手掛かりが欲しい。そう、例えば……〈魔女〉の倒し方や、神隠しの方法など。語り部のばぁさんから話を聞けたらいいのだが、また会うのは難しい。
それより、瀬奈の部屋を調べれば何かがあるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、林の斜面を抜けて登山道に転がり出る。体勢を崩し、左腕を地面に強く打ち付けたが、男は気にするそぶりもない。
と、すっくと立ち上がった男の上半身が弱々しい光に照らされた。
一瞬の沈黙の後、光の差す方から誰何の声と駆け足の音が近づいてくる。
こんな時間に山にいるとしたら、夜通しで山を調べていた捜索隊か、パトロール中の警官だろう。警察には勝手に山に入らないようにしつこく言われていた。ここで見つかったら、面倒なことになるに違いない。
光から顔を背け、男の表情が怒りを帯びる。ここ数日の度重なるストレスで、男のイライラは頂点に高まりつつあった。
「どいつもこいつも、この俺様を舐めやがって……」
と、まるでお面を付け替えたかのように、男の顔から突然怒りが消える。
「……ちょうどいい、腹ごしらえでもするか」
今度は一転してにんまりと笑みを浮かべ、男はべろりと舌なめずりをした。
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