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4・闇に潜む者
ひび割れた、古いアスファルトの道が伸びている。
細く、緩やかなカーブを描くその道を、曇りがかった月明りと弱々しい街灯がぼんやりと照らし出している。周囲にある建物は僅かで、寂れた公園や所有者不明の空地には雑草が乱雑に生い茂っている。
駅前のロータリーから徒歩にして十五分ほど離れたこの道を通った先に、失踪中の山口瀬奈のアパートがある。
その道端の、光の当たらない場所に一人の女が立っていた。黒のレザーコートに大きなとんがり帽子と異彩を放ついで立ちだが、周囲に人の目はない。
と、そこに一人の男が姿を見せた。女は、その男の道を遮るようにレザーコートをはためかせて立ち塞がる。
「来るの、遅っそーい」
「っ! お前は、さっきの……!」
男がぎょっとして立ち止まった。カーキ色のウィンドブレーカーの左ひじから先がボロボロに裂けて、黄土色の腕が露出している。
「お、お前がやったんだろ……。瀬奈をどうした?」
唾を飛ばして男がまくしたてる。顔色は悪いのに、口の周りだけが不自然に紅い。
「ちゃんと生きてるわよー。あんたの知らない場所で」
「か、返せ! あいつは俺の女だ!」
男の剣幕も意に介せず、女は腕を組んだまま口を開く。
「ちょうど、別の依頼の調査中だったのよ。先月、隣の外府市で起こった猟奇殺人事件。被害者の死体が欠損してたってことで騒ぎになってるわ。そう、まるで何かに噛みちぎられたかのように、ね」
沈黙したまま、男は緩慢に体を揺らす。垂れ下がった左腕が不自然にぐねぐねとうごめいていた。
「その犯人の手がかりを追っている内、ここ魔刈市にいることを突き止めたわ。しかも、どういう意図か被害者の知り合いの女の子に近づいててびっくりしちゃった。へったくそな変装までして、ね」
表情一つ変えずに女は淡々と言葉を紡ぐ。
「あたしは目立たないように、そいつが一人になるのを待った。んで、やっとそのタイミングが来たってわけ」
「何のことか……わからねぇなぁ」
「犯人が焦れて多可盛山に来るのは予想通りだったけど、あの要石で張っててよかったわー。やっぱり、生まれた場所が懐かしくなったの?」
「……うる、せぇ」
頭を強くかきむしって男が苛立つ。頭皮が髪毛ごとボロボロと剥がれ落ちていく。
「……見られたんでしょ?『食事』している所を」
二人の間に沈黙が流れる。それを破ったのは男の笑い声だった。
「クックック……。あの女、記憶がイカれちまってんだ。目の前で人に喰われたのに、狼の仕業だと思い込んでやがった。だからよ、すぐなくなる食料じゃなく恋人という名の奴隷にしてやることにしたのさ」
「確かに、人の記憶は曖昧よ。簡単に忘れるし、何かの拍子で改変されたりする。でも、それと同じように……思い出されるのが怖かったんでしょ?」
「う、うるせぇ! 俺は人間なんかにゃ負けねぇ。何も怖くねぇんだ!」
男は両手を広げ、掴みかかるジェスチャーをした。それはまるで、威嚇行動をする野生動物のよう。異様な形にねじれていた左腕はいつの間にか真っすぐに治っていた。
「活きがいいね。お前らはいつもそう。……もう、『生きていない』のに」
女は小さくため息をついてから、ニヤリと口角を上げる。
「ま、いいわ。依頼主に、犯人の生死は問わないと言われてるし」
「その依頼は失敗だなぁ。俺はもっと人間を喰うんだ!」
男は手足をぎこちなく動かして女に飛び掛かった。滑稽にも思える挙動なのに人間離れした速さは、まるで壊れたおもちゃが暴走しているよう。
表情一つ変えずに、女は術式を唱えて右腕を横に振る。周囲の空気が揺れて、女の眼前の空間に蒼い光の断面が生まれて消えた。次の瞬間、そこにはバレーボールほどの大きさの蒼い光球が発生し、男に向かって炸裂した。
光と共に男の肉片が弾け、千切れた腕が夜道の空を舞う。
だが。
「効かねぇなぁ!」
左肩から先を失った男は怯むことなく女に肉薄し、口をがばりと開く。その開き方たるや、子供の頭を丸のみできそうな大きさだ。おまけに腔内から覗く歯は人間それではなく、肉食獣の牙のよう。
充血した目をぎらつかせて男が歓喜の声で吠える。
しかし――
「うっさい」
嫌悪感丸出しで女が右手を縦に振る。その指先から糸のように伸びた銀色の光が男の首に素早く絡みつくと、そのまま頸部を一閃した。
男の頭部は捕食寸前の喜びのポーズのまま停止すると、胴体からずるずると離れて落ちていく。胴体はしばらく立っていたが、糸の切れた操り人形のようにがくりと崩れていった。
「や、やられた……のか?」
アスファルトの上に転がった男の首が、唖然とした表情でつぶやく。
「……あたしの仕事はね、あんたらのような人外を滅ぼすことなの」
「じゃあ、お前が語り部のばぁさんが言ってた〈魔女〉……」
「はぁ? どこが〈魔女〉よ? まだ若いっての!」
女の怒声が響く。
「……まぁ、あたしの師匠は正真正銘の〈魔女〉だけどさ」
女の呟きに重なるように、さらさらと砂が崩れる音がする。男の体が崩壊し、末端から砂に帰していっているのだ。
「くそっ、やっと力を手に入れたのに……」
「あ、そうだ。あんたに力を与えた奴はどこ?」
「し、知らない……うっ、うぐわああっ」
短い断末魔を残し、男の頭部も砂となって霧散した。
「逝っちゃったか……。〈吸血種〉ですらないただの〈ゾンビ〉が持ってる情報なんて、たかが知れてるわよね」
「さて、依頼主に連絡するかー。猟奇殺人の犯人は、あんたに彼氏ヅラして近寄ってきてた男だったわよ、って」
女はコートの中から慣れた手つきでスマホを取り出した。
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