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第三夜 月下に蠢く者
業平は夕方になって尋常ではない物音を聞きつけ、目を覚ました。
都は突然の激しい雷雨に見舞われ、大粒の雨が乾いた都大路を黒く染めあげていく。昼間の日光を嫌う主のために何重にも下ろされた御簾がバタバタとはためいていた。
「雨……」
業平の両眼が開いた。軽く頭を振って、薄暗い部屋の寝床から起き上がる。
通り雨のようだ。
重い御簾をはねのけて、業平が空を見ると黒雲が流れ、空全体が鈍く銀色から茜色にうっすらと変化しはじめていた。
ここのところ、乾燥していた空気が一気に潤い、雨上がりの町に爽やかな風が吹く。そんな爽やかな風と共に軽やかに、業平の元を訪ねてきた人物がいた。
「今頃起きたのか?」
鮎やら、何やら酒のつまみと酒瓶を下げて、紀 有常が御簾をあげて顔を覗かせる。
紀 有常、刑部卿 紀名虎の子。左京の出身で、少年の頃から仁明帝に奉侍し、武官を歴任している。二年前から刑部権大輔として清和帝に仕える武人だが、歌人としても知られている。
清らかでつつましく、真面目で身持ちも固く、礼にも明るい人物であると内裏の評判はすこぶる上々だ。
「来たのか、有常」
業平は美しい眉をひそめた。
「なんだ、業平。用事でもあったか?」
「イヤ、特にない。知っての通り、私は暇なお飾りだからな。人形のようなものよ」
「……どうした。ご機嫌斜めだな」
「そうでもない。単なる寝起きだ」
年老いた家人が慌ててバタバタと、渡殿を往復する。しばらくして、童が盆に酒の肴と杯を二つ持って簀子の上に運んできた。
闇のような暗い室内を有常が嫌い、濡れ縁の月光の下で酌み交わすのが彼らの常であった。
「どうしたのだ、業平?」
先に声をかけたのは、有常だ。
有常は業平よりも10歳年上で真反対な性格だったが、二人は何故か意気投合し、何かとお互い訪ねては酒を酌み交わす仲になって十年程経つ。
「どうした、とは?」
業平が杯を持つ手をとめた。
業平の杯にはドロリとした赤い液体が満たされていた。唐渡りの柘榴という実で業平がこの屋敷で特別に作らせている柘榴酒だ。
子どもの肉を食らうという鬼子母神の伝説から、人肉の味がすると言われているこの果樹を業平は好んで庭に植えさせていた。
赤い液体を啜る業平の姿が、月光の下でなんとも艶かしく妖しく輝くのを有常は目を細めて見た。
「今日はいつもにまして口数が少ない。何かあったか?」
問われたが、答えず業平は盆の上に杯を戻した。
「なぁ有常。実は私はこんなこと、初めてなのだ……」
ゆっくりと杯を干すとポツリと業平は言った。
「何の話だ?」
「いや、私にもよく分からぬことなのだが……」
「女の話か?」
苦笑して有常は言った。
「聞いてくれるか?」
「あぁ」
「実は、初めて……恋をしたかもしれぬ」
じっと有常を見つめて業平は言った。
「何を笑っている、有常」
業平は肩をぷるぷる震わせている有常を睨んだ。
「笑ったつもりはないが、どうした。一晩の恋の数ならこの国でお前より、上に出る者などおらぬのに」
有常は困った様子で頭を掻いた。
「一晩の……あれは恋ではない」
何やら物憂げな顔で業平は呟いた。
「恋でなければなんだ?」
「そうだな。あれは呪いだ」
「なんという言い種だ。お前に恋い焦がれて死ぬ娘達に心から同情するよ」
そんな有常の言葉には取り合わず、業平は無言で杯を重ねる。
「で?そのお前の初めての恋とやらの相手は誰なんだ」
有常は真面目な顔で尋ねた。
「藤原北家の、高子姫……」
「なんと!これはまた高嶺の花を……!この間の五節舞を見たのだな。初めての想い人がこの国一番の美女とは、お前らしいというか……うぅむ」
有常は唸り声をあげた。
「確かに実に美しいのだが、それだけではない……姫のことを考えると、ロクに眠ることもできぬ。そして、食欲も全く湧いて来ぬ。こんなことは初めてだ。全く分からぬことばかり……」
業平にしては珍しく、戸惑ったように言った。
「成る程。それを聞くならば誰しも恋患いと言うだろうな。しかし、お前はもともと霞を食むがごとく食は細い。それでは最近は殆どモノは食していないのではないか?」
心配そうに有常が言った。
「あぁ。そういった食物もだが、困ったことにさっぱり女にも食指が動かぬのだ」
「なんと!そういうことか。天下の色男も年貢の納め時だな。都の若い娘を持つ親には朗報であろうが……」
「……私には死活問題なのだが」
口の中で業平はモゴモゴと呟く。
「は?」
有常が聞き返す。
「お主は分からなくて良いぞ」
曖昧に業平は微笑んでみせた。
「で、どうするつもりだ?」
「近々、藤原屋敷へ行ってみようと思う」
業平は有常の言葉に明日の天気を語るかのように淡々と答える。
「お前ならそう言うと思ったぞ……お前を捕まえに行くようなお役目は御免だ。よく考え直せ」
有常は呆れたように言った。
「私は捕まるような下手はうたないさ」
「だがお前も知っての通り、藤原良房は清和帝に高子姫を入内させ、和子を産ませるつもりだぞ。警備は内裏よりも厳重だ。今回のことも、まだ10歳の清和帝とて、8歳年上であっても絶世の美女の高子姫の舞を見せつければ、あっという間に世継ぎが出来るであろうと戯れを申されておった。
いくらお前とて、あの厳重な警備の藤原北家に忍び込み、一晩でも高子姫に想いを遂げることができるとは思えないが……」
「私はあのような子どもに高子姫を好きにさせるのは耐えられん」
吐き捨てるように業平が言う。
「おい、帝のことをそのように言うものではない。どこで誰が聞いているのかわからぬぞ。小心者のオレは、お前がそのようなことを口にする度に心の臓がドキドキしておさまらぬわ」
「ふん、誰が聞いていても構わぬよ。本当のことだ。子どもは子ども」
悪びれた様子もなく、業平は言った。
「それにしても動悸がするとは。いよいよ歳だな、有常」
「抜かせ」
有常は業平とカツン!と杯を合わせるとグッと飲み干した。
$$$
月が大きく傾く頃、牛車が停まった。
川の瀬音が微かに聞こえてくる。
都の東、鴨川にかかった橋のたもとにぼうっと月の光をまとわりつかせた人影が立っていた。
月光のように輝く美貌が暗黒の闇の中で妖しく微笑む。
30代とは思えぬ美しくしなやかな逞しい身体が欄干の上に跳びあがる。
男は、言わずと知れた在原 業平。
先程まで飲み交わしていた紀有常は彼の屋敷の中で酔い潰れていた。
「さて、今夜の食事はどうしたものか」
業平は呟いた。
「あの日から、めっきりその気にならん……」
左右にニッと妖しく口の端を吊り上げて自嘲する。
そんな時、不幸にも牛車も入れぬほどの細い奥の小路から出て、橋を渡って家路へ急ぐ女と視線が合った。
業平の紅玉のように輝く面差しが女を射抜く。
「あっ……!」
業平を目にした女は、その場で硬直したように凍りついた。
平然と業平は石のように固まった女にスタスタと近寄ると、人差し指でトンとその額を軽く突く。
女は苦痛を感じる様子もなく、操り人形のようにクタクタと崩れ落ちた。
「仕方ない……娘、悪く思うな」
そう独りごちる業平の氷雨のように冷たい吐息が吐き出される口腔の奥に、美しく尖った白い牙がキラリと光った。
崩れ落ちた女の身体を、業平は軽々と抱き上げると闇の中へ消えていく。
一体、業平はどこへ?
それは、天から彼らを照らしていた満月のみが知っている……。
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