第四夜 侵入

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第四夜 侵入

本当に今夜は冴えざえと青く凄まじいまでの月光の夜であった。 その光に晒されると何やら人でないものが蠢いてきそうな妖しい月の光である。 どこぞの屋敷で咲いているのか、闇の中に仄かに藤の薫りが溶けていた。 「なにやら今夜は心が落ち着かないわね」 といつも気丈な姫が傍らの女房に呟いた。 このところ、激しい雷鳴とともに豪雨をもたらしていた分厚い雲が夕方から動き始め、雲はすっかり薄くなっている。 その銀色に光る雲の隙間からこぼれおちる月光に負けぬ美貌の(あるじ)を照らすのを女房たちはうっとりと見惚れた。 主の名は藤原 高子(ふじわら たかこ)。栄華の極みにあった藤原北家の娘である。清和天皇の女御候補として、彼女は仁明天皇の后だった藤原順子の屋敷・東五条院に身柄を預けられていた。 当時の東五条院の警備は都一番と言っても過言ではないほど厳しく、どんなに浮き名を流している遊び人とて間違っても、この屋敷に忍び込もうなんて無茶をする者はいなかった。 ほぼ、外界と隔絶された女の世界。 それが高子の過ごしてきた世界だった。 女房に促され、御簾の中に高子が入ると、不意に風もないのに燈台の灯火が激しく揺れる。 漂ってくる微かな藤の香り……。 首を傾げながら高子は寝所に入った。 女房がそっと板戸を閉める。 床に入り、高子は目を閉じた。が、何だか胸騒ぎのようなものがして、なかなか眠りにつくことが出来なかった。 灯火は吹き消され、目を開けてみてもそこにあるのはただ、狭い寝所の暗闇である。 隣の部屋は庭に面していて月明かりが燦々と入ってくるため、引き戸の隙間から青白い光の筋が何本か差し込んできていた。 (何だろう……何かが居るような気がする……) 高子の、神に仕える巫女としての直感だろう。 高子の腕にぶわっと鳥肌が立った。 高子は肩の上の方まで被っていた夜着の重ねをはねのけ、半身を起こす。 (誰……?誰かが見ている!?) 高子は光筋が入ってくる隙間に眼を向けた。 板戸の向こうに居る人物と目が合った。 「……っ!」 隙間からのぞく、その双眸が朱色に煙る。 その瞬間、高子は金縛りにあったように動けなくなった。 逃げようとしても足が動かない。 喉を押し潰されたような圧迫感。高子は女房を呼ぼうとしたが、叫びたくても声が出なかった。 「見つけましたよ、高子姫」 そう言うと相手は音もなく()()()()閂を掛けてあった板戸を開け、寝所の中に滑り込んできた。 高子はそのぼうっと青白い月の光に包まれた姿を見て、最初 「女では?」と思った。 それも無理はない。 肌の下にある血の香りのようなものが生々しく漂うような、抜けるような色の白さ。女と見紛う美貌、濡れるように紅い唇。この世のものとは思えぬほどの玲瓏とした姿は、彼女の知る「男」とはあまりに違っていた。 「貴方は誰?」 緊張でカラカラに乾いた唇を必死に高子は動かし、なんとか掠れ声で誰何する。 「私は在原業平」 業平は名乗ると、ゆっくりとした足取りで高子に近寄って来た。 「貴方が……?」 高子はその名を聞いて、大きな瞳をいっそう見開く。 籠の鳥のように過ごしている高子でさえ、女房たちの会話に毎日登場する、彼の噂話を耳にしない日はない。 「一体、どういうおつもりです?」 「男が忍んでくる理由は一つですよ」 業平の紅い唇の端がニッとつり上がった。 身体を後半に引いて逃げようとする高子の手を素早く取ると、業平は剥き出しになった白い手首に走る青い血管へその紅唇を押しあてた。 「あぁっ……!」 高子の全身にピリピリと電気のようなものが走り、思わず高子は眼を固く閉じる。 瞳を閉じた高子の顔に蕩けるような恍惚が浮かぶのを見て業平は暗く嗤った。 そのまま強い力で手首をペロリと赤い舌を出して舐めると手をひき、業平は高子を己の胸の中に抱き込む。 「おやめくださいっ……」 美しさと言い様のない淫靡さを浮かべた業平の貌を見上げ、高子は身を震わせた。 (これは何という……美しさだろう。この方は、本当に()()在原業平様なの?本当は彼の名を語る魔物ではないのかしら……?) 乱暴なのに、その腕の中は高子にはひどく優しく哀しく感じられた。 あっという間に、頭の芯がぼうっとするようなとてもよい匂い……伽羅の匂いなのか、はたまたこの男自身の薫りなのか、蠱惑的な香りに包まれて身体中がフワフワと甘い痺れに犯されていく。 そんななかで、高子を正気に引き戻したのは、彼の胸から伝わってきた、深くて冷たい鼓動だった……。 (何て、冷たい……まるで深い水の底に沈んでいくような……そう。真冬の氷柱に触った時のよう) 「……離れなさいっ!」 高子は腕を突っ張り、業平の身体を押しやった。 「おや、正気に戻られましたか……なるほど、この薫り。この屋敷に居ながら未通娘とは……クックック……貴女は正しく巫女姫なのですねぇ」 恭しくもからかうような響きを帯びた業平の声色に、高子はぎりっと唇を噛みしめると懐に手を入れ、懐剣を取り出す。 素早く片手で引き抜いて、高子は喘ぐように叫んだ。 「早く、ここから立ち去られよ!」 月光がその冷たい刃に映って煌めく。 「これはなんと勇ましい姫君よ……成る程、これでは貴女に執心しているという兄上も、皆、尻尾を巻いて退散する訳だ」 ここ、東五条院の屋敷が高子の兄の藤原基経ら許された藤原一族の男達の後宮と化しているのは公然の秘密だ。 彼らが目をつけた見目良い女房達、既に夫や子どもが居る者もいたが、この東五条院に拐われるようにあちこちから連れて来られていたのだった。 「私は神に仕える巫女。我が身を汚す者には、恐ろしい祟りが降りかかりますぞ!」 高子は精一杯、低い声を作って業平を脅す。 「貴女の祟りならいくらでも引き受けよう」 業平はフワッと軽く、羽のように高子の唇にその冷たい唇を重ねる。 「……っ!!」 「直ぐにでも拐っていきたいが、今宵はこれまで。また来ますよ……高子姫」 業平はやって来た時と同じように音も立てず、再び妖しい月光の下へ姿を消した。
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