第五夜 藤の芳香

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第五夜 藤の芳香

主人を起こそうと高子付きの女房、橘式部が寝所の扉に手をかけた。 「あら……?」 向こうの渡殿をゆうゆうと歩いているあの公逹(きんだち)の横顔……この邸の者ではない。どこぞの女房の所に忍んでやって来たのだろうか。それにしては堂々たる歩きっぷりだ。 「……どこからいらっしゃったのかしら?」 長々と続くこの廊下は遮るものがないため、かなり先まで見渡せる。 ここが藤原北家の屋敷だと知らないウッカリ者か、命知らずの若い公達かもしれないが、この場所は女房たちの寝所から近くはない。 迷いこんだだけかもしれないが……それにしては突然、彼女の視界の前に現れたように感じられた。  ……ただし、女主人の部屋から出てきた、というならば別である。 橘式部は慌てて、扉の閂を確認した。 「あぁ……良かった」 女主人の寝所の扉は内側から(かんぬき)がしっかりしまったままだった。 「では、あの美しい御方はどこから……?」 普段、平静な古参女房の橘式部の心さえ、深くかき乱してしまうほど麗しく整った白い貌。 その人離れした美しさが焼きついてしまった彼女は、既に姿を消した渡殿(わたどの)の奥に目をこらす。 「イイ香りだこと……」 先ほどの公達が去っていった渡殿の方から芳しい香りが流れてきた。 うっとりと我を忘れそうな甘い芳香である。 その香りに、如何なる効果があるのだろうか。 近達が着ていた直衣は紫と浅紫を重ねた『菫』と呼ばれる衣だったが、流れてくるのはむせかえるような藤の甘い蜜の香り……。 お役目も忘れ、橘式部は夢心地でフラフラと蜜に群がる蜂がその香りを追うように歩き出していた。 §§§ その朝ーー 高子は、兄の基経(もとつね)の訪問を受けていた。 妹を溺愛しているこの兄は何かにつけてご機嫌伺いに訪れるのだが、高子の反応は毎度つれないこと、この上ない。 「気分はどうじゃ?」 基経は女房達に朝餉(あさげ)の膳を用意させながら、目を細めて妹に問うた。 「……いつもと特に変わりませぬ」 本心は最悪にござりまする、と答えたかったところだが高子は何とか喉元でその言葉を飲み込んだ。 「季節外れな……藤の香りがする……」 基経は怪訝な顔をして几帳をずらし、簾越しに前庭の藤の木を見た。 まだ、早春。蔦の絡まる藤の木には当然、花はついていない。 「香でございましょう」 芳しい香のような甘い薫りが高子の座から流れてきた。 この時代、宮廷人のたしなみとして香の調合をすることが流行っている。各々、趣をこらして自分だけの香りをつくっており、漂う香りで()()()()()わかることもある。 「誰の香か?」 「さぁ。女房のものでしょうか……」 微かに高子の顔が強ばり、声が震えた。 「どうした……?」 御簾越しでもそんな高子の様子を見逃す兄ではない。 「……」 「何があったのだ?」 「……」 問いつめるような兄の言葉に高子はおし黙った。 「人払いじゃ」 返事をしない妹に苛々とした基経は側に控える女房に険しい顔で命じる。 女房達は主のこのような指示には手慣れたもので、あっという間に姿を消した。 「何があった、高子」 御簾を押し上げて、基経がずいっと中に入ってきた。 邪魔な御帳台を蹴りとばし、基経が顔を背ける高子の顎に手をかけて上を向かせた。その肌はひんやりと冷たいーー熱はないようだ、と基経はホッと胸を撫で下ろす。 「眠れなかったのか?」 「……おやめ下さい」 基経の手を払いのけ、高子はかすれた声で抗議の声をあげる。 「ふ……ん」 基経は払われた手を撫でながら、高子の全身を隈無く見た。 高子の滑らかな白い肌はいつもより青白く、いつも兄に蔑んだような視線をよこす澄んだ瞳は眠れなかったのか充血している。 濡れたように艶やかなうす桃色の唇はきゅっと引き結ばれているが、いつもにも増してその身体から何かに警戒しているような……刺々しい気が発せられていた。 「……あぁ、血の道か」 ピリピリしている高子をやわらげようとからかうように基経は言った。 「違いまする」 氷のように冷たく、ピシリと高子が答える。 「兄様、橘をお呼びください。私は気分がすぐれませぬゆえ、これで休ませていただきとうございます」 「わかった。私は退散するとしよう。大事な身体ゆえ、ゆっくり休むがよい」 強く拒絶するように背中を向け、脇息にぐったりともたれかかる高子に声をかけると基経は立ち上がった。 「橘!橘式部はいるか?」 基経は手を打ち鳴らし、高子付き最古参の女房を呼ぶ。 「基経様!」 廊下で基経を呼ぶ若い女房の声がした。 基経は簾をあげて廊下へ出ると、若い女房がオロオロとして控えていた。 「相模か。何用か?」 基経自身が何度か手をつけたことがある女房だ。若鮎のようなしなやかな身体の持ち主だが、それほど頭がキレる方ではない。 「あの……基経様」 言いにくそうに若い女房……相模の君は基経を見上げた。 「……今朝から橘さまのお姿が見当たらないのです。朝早くに寝所から出たのは間違いないのですが……」 「何?橘が?」 蟻一匹這い出る隙間もないほど、厳重な警備で固められたこの東五条院である。厳しい警備の目をかいくぐって、動きも鈍い中年女房の橘式部が外へ出ていったというのか。 ……ありえない。 基経はたちまち不機嫌になった。 今朝は、高子の機嫌も体調も最悪だった。 妙なことが、ありすぎる。 ……もし、万が一この屋敷に侵入者か、もしくは屋敷から許可なく抜け出すことができる者がいたとしたら……。 基経は御座所に警備兵の長を集めるよう相模に命じ、廊下を暗い顔で歩いていった。
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