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第六夜 逃亡する蘭陵王
侵入者とは思えぬほど堂々とした態度で、悠々と東五条院の廊下を歩いていた業平は突然立ち止まり、周囲を注意深く見回した。
(さて、どうやって帰るとしようか……)
どことからとなく、微かに笛や管弦の音が聞こえてくる。
女たちが笑いさざめく声も混じり、人の気配が伝わってきた。
(成る程。こちらは女房達の部屋か……)
その時、荒い足音とガチャガチャと金属が鳴るような音がハッキリと聞こえてきた。
(警備の者であろう。見つかると面倒だな)
すばやく業平は庭に降りると邸の築地塀の方へ走った。姿を木々の陰に身を隠して様子を伺う。
その前を二人組の武人が何事もなかったかのように通りすぎていった。
(本当に見かけ通りの大きい邸だ……)
耳を澄ますと、琵琶や笛、笙などの音に混じってうたうような声が途切れ途切れに聞こえてくる。
この対屋は楽人達の部屋が近いのだろう。
「これは催馬楽か……?」
催馬楽とは雅楽に取り入れられた民謡のことである。笛や和琴などの伴奏にあわせてうたう。舞いはなく、宴席や法会などで謡われているものだ。
(これを利用してみるか……)
ひとたび闇が落ちれば、闇の一族の血の呪いによって、ヒトならぬ力が彼の身体を駆けめぐる。
獲物を魅了し金縛りにする能力や暗視能力、巨石を一撃で砕く力、獣をも凌ぐ跳躍力、都から何里も離れた海山まで休みなく走り続けることのできる持久力……。
夜であれば、彼にかなう者はこの日の本には誰一人いないだろう。
だが、あいにくともう、陽は昇りはじめていた。
そうなると、もう闇の力は威力を失い、業平はただの「ヒト」とそれほど変わらぬ存在になる。
忍んできた時のように、空を駆けるがごとく塀や壁を軽々と跳び越えることはかなわない。
ひとたび陽が昇れば、厳重な邸の警備をかいくぐって門から出ていくしかないのだ。
業平は適当に当たりをつけ、楽人の部屋らしき場所に入るとそこは無人であった。
先程聞こえてきた音は庭に集まって、楽人どもが今宵の宴に向けて練習でもしていたのであろう。
部屋を見回すと隅に舞楽装束〈唐装束〉がいくつか掛けられている。
業平はそのうちの一つに手を伸ばすと、素早くそれを身にまとった。
舞楽衣装は、唐や南方諸国より伝来した楽舞の服装である。外来の風俗を模し、仮面をつけて踊るものであったため、衣装にあわせて立派な面も一緒に文机の上に置かれていた。
「これは……蘭陵王の仮面か」
にやっと笑うと業平はその、龍を頭にいただき、顎を吊った大きな目玉を模した恐ろしい仮面を被った。
蘭陵王……北斉の蘭陵王長恭は、武勇の誉れが高い将軍であったが、容貌が美しかった。そのため、味方の兵士が彼に見とれて戦さをしようとしなかったので、恐ろしい仮面を装着して勝利できたという故事に基づく人気の演目である。
「なかなか良いな……」
まさに、業平の美貌を隠すのにこれ以上おあつらえ向きのモノもなかったが……この出で立ちは、違った意味で人目を引くようになってしまっていたのだった。
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渡殿から御所を模した「壺」といわれる庭に降り立って、紀 有常は怪しい者が潜んでいないか型通りに見回した。
朝っぱらから藤原基経からの突然の要請で彼は自分の屋敷から呼びつけられたのだった。
何やら不機嫌な基経に、屋敷内に不穏な動きがあるようだから見回りを強化せよ、とキツく言い渡されたのだが、不穏の詳細については聞かされていない。
(もしかして、アヤツが忍んでいったのではあるまいな……)
そんなことを思いながらボンヤリと歩いていた有常の背中を、ぽん! と誰かが叩いた。
「うわぁっ!! な、何者だぁ!」
振り向いた途端、恐ろしげな毒々しい仮面が突然目前に現れ、有常は飛び上がった。
「フフフ……私だよ、有常」
仮面の下から秀麗な業平の白い貌が現れた。
「業平! やっぱりお前か……」
「ん?」
子どもっぽい仕草で業平が首をかしげた。
そんな仕草までが妙に色っぽかったりもするのだが、そんなことには長い付き合いの有常は惑わされない。
「ん? ではないっ! 何やらこの邸の中に不穏な者が侵入したらしい、と外部の俺や検非違使達まで基経殿に呼びつけられたのだぞ!」
「へーぇ」
「一体ここで何をしてるのだ、お前は……」
有常は呆れたように声をあげる。
「職替えだ。私は役人は向かぬからな。どうだ、この姿は我に良く似合うであろう?」
業平は蘭陵王の仮面を被ると、両袖を広げ、身軽にクルリと舞ってみせた。
「そのようなことをしている場合ではなかろうが……!」
「まぁ、お主と出会えたのだ。これは僥倖(ぎょうこう)」
「何と呑気なことを! 一体どうやってここから出るつもりなのだ」
のんびりと庭石の上に座りこんでしまった業平を有常は鋭く睨みつけた。
「部下の武官か、楽人として出せるようにこれからお主が手配してくれるのであろう?」
有常はこれから自分がする苦労を思うと腹立たしかったが、グッとこらえた。
「しかし、その衣装ではやたらと目立つ。いかに俺でもどうせよと……」
「無礼な楽人を引っ捕らえたとでも報告すれば良いではないか?」
「そう上手くいくものか!」
これだから、お前と付き合うのは厄介なんだ。
だからあれほど、ここに忍んでくるなと言っただろうが……。
有常の表情にはそんな思いがありありと浮かんでいた。
「言いたいことは言った方が良いぞ。身体に悪い……」
業平がそう口を開いた瞬間。
「「……!!」」
二人は同時に背後……母屋の方角を振り返った。
その鋭い視線の先には、不自然にユラユラと御簾が揺れていた。
「誰か居たな。何者だろうか」
「どうやら見られていたようですね」
常人ならぬ業平の視力は、女房の赤い重ねの単をとらえていたが、口には出さず有常に同調した。
「お前の顔を見られたのだろうか? まぁ、いずれにしても厄介なことだ……」
有常は思わず天を仰いだ。
西の空にうっすらと白い月が輝いているのが見える。
その妖しく銀色に輝く美しさは、彼の目の前で妖しく微笑む友人とよく似ていた。
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