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第七夜 汗だくの有常
「とりあえずその面はやめろ。頭巾ぐらいにしておけ」
有常は断固として蘭陵王の面は置いていくように主張した。
「頭巾も変ではないか?」
「顔にデキモノが出来たので顔は見せられぬとでも上手く言い抜けろ! お前の得意分野だろうが」
「有常。口うるさい婆のようだな。早く老けるぞ」
業平は有常の言葉を軽く受け流す。
「……!!」
ただでさえ心配性の有常である。いい加減な業平と付き合っていたら、口うるさくもなろう。
「ほれ、あったわ」
ちょうどおあつらえ向きに車舎の壁に頭巾が掛かっていた。
車舎とは、文字通り貴族達の車庫のような場所である。どの貴族の邸にも建てられているが、さすが藤原南家、牛飼い達が住まう大きな建物であった。
「誰かに見られる前にさっさと乗るのだ!」
有常は頭巾を被せた業平を手前の粗末な牛車に手荒に押し込んだ。
「そこで何をしておる?」
ひときわ豪華な唐車が停車している方から鋭い声がかけられる。
「う!」
有常がビキッと固まった。
「……なんと。あれは、基経だな」
面白そうに業平は牛車の物見窓から外をのぞく。
ぞろぞろと供の随身たちを引き連れてやって来たのはこの邸の主、藤原 基経であった。
唐車に乗って内裏に出仕するところだったのであろう。
(これは不味いお人に見つかった)
野心や謀略だらけの内裏を泳ぎ渡ってきた基経は勘が鋭く、のんびりした質の有常から見ても、この京で一番油断のならない人物である。
「は、お役目が終わりましてこれから退出するところでございます」
「なぜ、牛車を使う?」
不審な目を基経は有常に向ける。
「はい……従者が一人、腹が痛いと動けなくなりまして。昨今の流行り病だったとしたら、一大事。……なので、先に車で屋敷に帰すところでございます」
「なんと、流行り病とな」
あからさまに基経はイヤな顔をした。
(これは、いけるか?)
「は、それではお暇を……」
心なし軽くなる足どりを必死に押さえ、有常は牛飼いの少年に視線で合図を送る。
「いや、待て。念のため、その従者の顔を見せよ」
基経の思いがけない言葉に有常から嫌な汗がじわじわと吹き出した。
「……お言葉ですが、お心にかかるような姫君でもないゆえ、顔は見られない方が良いかと──」
有常はなんとか誤魔化せないだろうかと彼なりに思案してみたものの、起死回生の閃きは何も浮かんでこなかった。
基経はその有常の様子に何か感じたのだろう。強い口調で言い捨てた。
「妙だな。女人でもないならなぜ隠す。流行り病でも構わぬ、出せ」
「はっ」
やり取りを見ていた業平は牛車を降りようとしたが、あわてて牛車に転がり込んできた有常に押し戻される。
「なんだ、有常。もはや出ないと基経は納得しまいぞ?」
「お前!! 頭巾をとるな、といっただろうが!」
有常は脱ぎ捨てられていた頭巾を拾いあげると、業平に強引に被せた。
「うわ、それは反対だぞ。勘弁しろ、有常!」
「うるさい。だまれ! とにかく流行り病で顔が見せられぬ、と口裏をあわせろ。わかったな!」
猛然と捲し立てる有常に、業平は返事をするかわりに肩をすくめてみせた。
「この者が牛車におりました従者にございます……」
業平の頭巾を被せた頭を押さえつけ、深々と有常は頭を下げた。
「なんと。女ではないのぉ……」
(橘かと思ったんだが──)
基経の呟きは有常の耳には届かなかった。ただし、常人の数倍の聴力を持つ業平はその言葉をしっかりと拾う。
(橘……? 女房か何かの名だろうか──)
「もう良い。ご苦労様だったな、有常」
「はっ」
有常が何とか誤魔化せたかとホッと気を抜きかけた時、
「しかし、なぜ頭巾を被っておるのだ?」
基経はまだしつこく問いただしてきた。
「えっ!」
「そこの者。なぜ、香の薫りがする?」
基経は不快げに鼻を鳴らした。仄かに藤の花のような香りが漂っていることに気がついたのである。
この時代、高級品である香をただの従者が焚いているはずはない。
偶然、基経が業平の風下に立っていたのが運のつき。
有常は再び蒼白になった。
「香が薫りましたか。申し訳ございません。私は以前、疱瘡にかかりまして、肌が爛れてヒドく臭うのでございます。
なのでこうして主人の供をする時は頭巾と香をお願いしている次第でございます。お目汚しになりますが、私の腐れた肌をご覧になられますや?」
業平は落ち着いてそう答えると、頭巾に手をかけて基経に迫った。
「頭巾を取るな!」
基経は心底嫌な顔をする。この時代、疱瘡──平城の世に藤原四兄弟を全滅させた感染症の恐ろしさは基経にとって鬼に匹敵する恐怖であった。
「もう早く行け」
基経は追い払うように手をふると、用意された自分の唐車に乗りこんだ。
「では、失礼を」
有常は今度こそ基経が気が変わらぬうちにと、業平を引きずるようにして牛車に放り込む。そして自分も慌てて飛び乗ると、急いで基経の邸から退出したのであった。
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