第八夜 道行き

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第八夜 道行き

「全く、俺はなんとも寿命が縮んだよ」  紀 有常(きの ありつね)は牛車の中でふぅぅっと息を深く吐き出した。  何とか藤原基経の邸から辞去した有常は、急いで自分の邸に向かって牛車を走らせていた。  ガタタン、ガタタン……。  規則正しく車輪が埃っぽい大路を踏んでいく。 「なぁ、業平(なりひら)」  有常が言った。 「ん?」 「で、高子姫には逢えたのか?」 「あぁ──」  なにやら含み笑いをしながら業平が頷いた。 「いやな笑い方をするなぁ」 「そうか?」 「で、どうだったのだ?」  有常は重ねて訊ねた。 「どう、とは?」 「……在原業平といえば一夜限りの恋であろうが? 昨夜、めでたく想いを遂げたのであれば、俺も冷や汗をかきながら助けたかいもあったというもの──」 「有常。手間をとらせてすまなかったな」  業平は有常に頭を下げた。 「俺は別に礼を求めたわけではないぞ」  有常は慌てて言った。 「お前の恋が成就したのであれば、今夜はゆっくり酌み交わそうかと──」 「まだ成就はしておらぬよ」  業平の言葉に有常は固まった。 「おい、業平」 「何だ?」 「さっぱり意味がわからぬのだが……説明してもらえぬか?」 「わからぬか?」 「わからぬわ!」  勢いよく唾を飛ばす有常を見て、業平は愉快そうに笑った。 「高子姫はまだ巫女姫のままだ」 「へ?」 「わかったか。だから成就はしておらぬのよ」  業平は何やら悪戯っぽい笑みを浮かべて有常を見た。 「つまり──手を出してはおらぬと?」 「そういうことだな」 「……業平。お前、病気か? 何か変なモノでも拾って食ったのか? ……なんなら今から医師を手配するが?」 「──大概な言い種だな」  業平は憮然とした表情で呟いた。 「あり得んだろ。天下の在原業平が女の所に忍んでいって何もせずに帰ってくるなど! 天変地異並だ!」  目を丸くして有常は叫んだ。 「そんなに叫ばなくても聞こえる……」  耳元で叫ばれ、業平は顔をしかめた。 「や、これはすまん。それよりつまり、何だ。巫女姫があまりにも清らかなので、流石のお前でも手出しができなかった、とか?」 「……清らかなのは間違いないな。なかなかよい味であった」 「──!? 業平よ! お前……先ほど手は出してないと言ったではないかっ!」  有常は呆れ果てて業平を見た。 「何もしなかったとは言ってない。味見ぐらいはさせてもらった。心が震えるほどよい女だったなぁ──」 「……素面で聞く話ではなさそうだ」  頭を掻きむしって有常が唸る。 「私はここでも構わぬよ」 「俺が構うわ!」  そんな話を続けているうちに牛車は有常の邸にたどり着いた。 「今度忍んで行く時はもっと早く出た方がよさそうだな。思ったよりも邸内に長居してしまった……」 「まさかと思うが……お前。また、あそこへ忍んでいくつもりなのか!?」 「あぁ、行くつもりだが?」 「……」  有常は頭を抱えた。 「どうせお前は止めても聞かぬであろうな……せめて、次はいつに行くのかぐらい俺に教えていけ」 「ふむ。……では今夜あたりにするか」  しれっと答える業平に有常はがっくりと肩を落とす。 「今夜──? せめて明日にせぬか?」 「いや、無理」 「明日は同じ手は使えぬぞ?」 「私は同じ失敗はせぬよ」 「……飲んで話すか?」 「酒を飲んでも同じことだ。今夜行く」 「……」  人の良い有常は手間のかかる友人を説得するため、慌てて家人に酒席の用意を言い渡すと自分の邸に招き入れたのだった。
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