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10. グチャグチャ
何度かやり取りした結果、明日駅前で待ち合わせることに決まる。土曜日なので、学校は休み。
重要な話だから、詳しくは直接話したいそうだ。
勝巳の用件は、進路についてだとは聞いた。受験校を決めるのに、私の意見が欲しいのであろう。
それくらい自分で決めてくれないと困るのだけど、学部を変更するつもりかもしれない。
母が帰宅するまで勉強に励み、頃合いを見計らってスープを温め直す。
風呂炊きも完了したところで、玄関ドアの開く音がした。
「寒いわぁ、雪でも降りそう」
「まだ早いよ。すぐに食べる?」
「ありがと。着替えてくるね」
炒めものにも火を通し、ご飯を盛り付けたところで、ダイニングへ戻ってきた母と準備を交替する。
二人揃って食事をすることは、案外に少ない。
わざと時間をズラしているわけではなく、幼少から二人きりで食べる機会が珍しかったので、どうも落ち着かないからだ。
仕事が捗っていない時の母は苛々と愚痴を零すことも多く、そんなタイミングで同席すると、八つ当たりのように小言も聞かされた。
少なからず苦手意識が刷り込まれ、当初は親子で暮らしていけるのか不安に感じたものだ。
最近は母も丸くなり、喧々と言い争ったりはしない。
今も伏せ目がちに、私の都合を尋ねてきた。
「明日の家事も頼める? 仕事が入っちゃって……」
「いいよ、やっとく」
「来週、最終懇談でしょ。休み取ったら、替わりに土曜も来てくれって」
「お母さん来るの? 国公立組みだけの最終確認だし、生徒だけの家が多いのに」
「一度くらいは、ね」
母が来たところで、今さら話すことなんて知れている。
模試の成績は見せたし、希望校は夏から同じだ。
私に任せきりだったのを気に病んだのかもしれないが、親抜きで進路相談をした子はいくらでもいるのに。
努めて不満を顔に出さないようにして、廊下へと背を向けた私を、母は静かな声で呼び止めた。
懇談会の前に、私の選んだ進学先について詳しく知っておきたいと言う。
「夏休みに喋ったのから、何も変わってないよ」
「聞きたいのよ、もう一回」
座るように促され、自分の湯呑みにお茶を注いでから、母と向き合った。
第一志望校、学部、受験科目、大学で専攻したいこと。
東京に出た方が選択肢は多いけど、お金が掛かるしね――そう言った時にだけ、母の眉が僅かに動く。
「心理学がやりたいのには、理由があるの?」
「カウンセラーに興味があるから」
大学を卒業してから何をしたいか、具体的な職種を挙げたのはこれが初めてだった。
研究者でも先生でも好きなものを目指しなさいと、夏の段階では言われていたっけ。
私学を断念させたのだから、それ以上の注文はつけないとも、苦笑いと共に受け合われた。
「カウンセラーって、かなり大変みたいよ。なんでまた、そんな職業を?」
どこまで話したものか、返答に詰まって目を泳がせる。
ダイニングの入り口に、いつの間にやらミャアが立っているのを見て、私も腹を括った。
ちょっと照れ臭いだけで、隠すようなことじゃないし。
「お父さんは、人命救助を全うしたわけでしょ。私は救急隊員にも医者にもなれないけど、別のやり方で人を助けられないかなって」
「それは……」
みるみる曇る母の顔に、動機を喋ったのは失敗だったかと慌てる。
父の写真も遺品も家に飾らないのは、その死を思い出したくないからだろう。
しかし、私たちは現実を受け入れて、そろそろ前に踏み出すべきだ。
「立派なお父さんを、誇りに思う。家族も、助けを求める人も、みんな大事にしてたんだよね」
「……亜耶は覚えてないでしょ?」
「小さかったからね。でもさ、カッコつけた言い方をすると、お父さんの意志を受け継ぎたいっていうか――」
「もういい」
吐き捨てるような母の口調に、思わず言葉を切った。
とうに食べる手を止めていた母は、一言「ごめん」とつぶやいて歪ませた顔を私から逸らす。
話は終わったとばかりに、無言で軽く右手を振った。
あっちへ行け――不機嫌な母は、稀にこんな理不尽な態度を取る。
犬を払うようなジェスチャーは極めつけで、私は大嫌いだった。
「なんで怒るのよ! 訳わかんない」
「謝ってるでしょ。一人にさせて」
「お父さんの話をしたから? 無理やり考えないようにするなんて、間違ってる」
「あんな男の話はやめて!」
しまったという表情になったのは一瞬で、母はすぐに険のある目で睨み返してきた。
あんな男、と言ったのか。
先立ったことを、そこまで恨んでいると?
私の気持ちに、何ら恥じるところは無い。
父を敬って何が悪いのかと、堂々と母の苛立ちを受けとめ、何やらゴソゴソ動き出したミャアは無視した。
今はカワウソの相手より、母だ。
一分も経っていないのだろうが、再び母が口を開くまで、爪先が冷えるほどの時間を待った。
「もっと早くに話すべきだった」と前置きして、母は父について語り始める。
怒鳴るでもなく、さりとて穏やかというには低い声だった。
「あいつは、私たちを捨てた」
私が生まれる少し前のこと。
父は飲み屋通いを始め、そこの店員と浮気をした。
呆気なく母にバレて、二度としないことを誓ったらしい。しかし、その後もコソコソと逢瀬を重ね、五年後に相手を妊娠させてしまう。
離婚を申し出たのは、父からであった。
調停で二度ほど顔を合わせただけで、以降、会うどころか、手紙のやり取りも途絶えたと言う。
家財も親権も放棄した父は、どこぞの女と逃げて消え、養育費すらすぐに滞った。
救急隊員だったのは事実だが、現在の勤めが何かは分からない。東京のどこかで、家庭を築いているらしいが。
身を呈して人命を救ったエピソードは、真っ赤な嘘だった。
「騙したのね。ずっと、十年以上も」
「作り話をしたのは母さん――あなたのお婆ちゃんよ。私は反対したのに、子供へ教えるには早いって」
「いくらでも、あとから訂正できたじゃん! なんで今頃言うのよっ」
冷えていた身体が一気に熱くなり、息が詰まる。
顔も朧げな父は、それでも私の心に仕舞われた大事な思い出だ。父を悪し様に罵ることを、許せというのか。
いや、本当に母が言う通りの馬鹿なら、私も一緒になって恨むのが筋か。
私たちを捨てた男を否定し、全てを御破算にして一から私の十年を塗り替えろ、と?
グチャグチャだ。
なぜこのタイミングで、受験を控えた時期に、こんな話を投げつけてくるのよ。
私を気遣えば、隠し通すのが正解だろうに。
なんで? どうして?
「お母さんもお婆ちゃんも、最低っ」
「仕方がなかったのよ。亜耶はまだ幼稚園だったから」
「言い訳ばっかり。私なんてどうでもいいんでしょ」
「そんなこと言わないで――」
母を遮るように乱暴に立つと、押された椅子の脚が軋みを上げた。
もう喋りたくない。
さあ、さっきみたいに追い払えばいいじゃん。お望み通り消えてやる。
懇談会なんて来るな――そう捨て台詞を吐こうとした時、ミャアが私のふくらはぎをポコポコと叩いた。
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