11. わかんないよ

1/1
前へ
/15ページ
次へ

11. わかんないよ

 左右の前脚を交互に動かして、一心に私を殴りつける。  それなりに力を込めているようで、ちょっと痛い。  必死の形相と言うには、いつもと同じ(とぼ)けたカワウソフェイスに、声を荒げる気も失せた。 「亜耶、待ちなさい!」  背に母の声を浴びながら、二階へ駆け上がる。  勢い任せに部屋のドアを叩き閉め、しばらく立ち呆けたあと、渋々とベッドの端に腰を下ろした。  苛々を鎮める方法が、何も思いつかない。  新たに聞かされた父親像が偽りかとも疑ったものの、それこそ当を得ない仮定だろう。 「危なかったぁ。ギリギリセーフかな」 「何がよ?」  ミャアはどうやって移動しているのやら、またもや気配も無いまま傍らに座っていた。  足をブラブラさせる様子は、人間さながらだ。 「嘘をつかずに済んだね」 「嘘だらけなのは、お母さんじゃない!」  いいや、とカワウソが首を横に振る。  今晩に限れば、母は嘘を言わなかった、と。  じゃあ、今までつき続けた嘘は、カウントしなくていいのか。百八なんて数じゃない、千や万だって超えてそうだ。  母もお婆ちゃんも、とっくにカワウソになっていないとおかしい。 「んー、お母さんは隠してたけど、はっきり嘘を言ったりはしてなかったよ」 「そんな! 嘘も黙ってるのも同じことでしょ」 「アヤちゃんを傷つけようとしたわけじゃない」 「詭弁よ!」  屁理屈をやりこめようと尚も抗弁する私を、毛に覆われた手が制した。  左手を私へ突き出し、よく考えてみて、とミャアが告げる。 「それでもお母さんに騙されたと言うなら――」 「言うよ、何年越しの話だと思ってんのよ」 「じゃあさ、どんな理由でも、やっぱり嘘はよくないってことだよね?」  その通り。相手がどう受け取るかが問題なんであって、悪気は無いなんて言い逃れだ。  創作おまじないと同列にしてほしくない。  私は自分の言ったことに、ちゃんと責任を……。  嘘の責任ってなんだ。  分かんないよ、もうっ。  服のまま、布団の上に倒れ込む。  階下から微かに水音が伝わるのは、母が食べ終わったということであろう。  普段なら洗い物の次は母の風呂、それを待って私が入る。  勉強をする気力も湧かず、一階へ降りるのも面倒臭い。仰向けで目を閉じた私を見て、ミャアが肩を揺すってきた。 「寝るの? 風邪引いちゃうよ」 「うるさいっ」  暖かくすれば文句は無かろうと、布団を被って壁を向く。  風呂どころか顔も洗わずに、この夜はブラウス姿で眠りに落ちた。 ◇  焼ける家から、父が子供を抱いて飛び出す。 「要救護者を確保!」  離れて見守っていた人垣から、歓声が上がった。  感謝のつもりか、抱えられた子が毛だらけの手で父の胸をポンと叩いた。 「ありがとう、ぎゅふっ!」  笑うカワウソの面妖さに、布団を跳ね上げて身を起こす。  なんて夢だ。  起こされた原因は、即座に判明した。  ミャアが隣で丸くなり、幸せそうにギュフギュフと寝言を発している。  肩甲骨の辺りが寝違えたように突っ張るのは、寝巻に着替える手間さえ惜しんだせいだろう。  部屋の明かりも点けっぱなしで、枕元の目覚まし時計もハッキリと見えた。  午前五時五十分、二日連続の早起きだが、思ったより熟睡したみたいだ。  寝直すには眠気が飛んでしまい、半開きの(まぶた)越しにぼうっと天井を眺めて過ごす。  半時間くらいその体勢でじっとしていると、ミャア以外が立てる物音が、思いのほか明瞭に響いてきた。  洗面所の水が流れる音、廊下を歩く忙しないリズム。  オーブンがチンっと鳴ってから十分ほどして、スイッチを弾き照明を消す音まで聞き分けられた。  母が帰って来るのは、昨夜よりも遅いはず。週末の出勤は、大体そう。  夕食が必要なのか聞きそびれたと考えつつ、扉の閉まる音で、また家には自分一人になったことを知る。  一人と一匹、だったか。  考えがまとまらない父のことは脇へ()け、眠るカワウソへ意識を向けた。  昨夜は聞き流してしまったが、ミャアは私の事情に随分と通じているようだ。  物の怪だからそんなもの、と納得しそうではあるけれど、来歴の謎は余計に深まったとも感じる。  いつから私を見てきたのだろう。  私と母の喧嘩を仲裁して、このカワウソに何か益があるのか。  拭い切れない疑念が、むくむくと私の中で膨らむ。  ミャアを起こさないように注意して、ベッドの先に手を伸ばし、スマホをケーブルから抜いて引き寄せた。  分からないことは検索、高校生の基本だ。  ブラウザであちらこちらのサイトを閲覧し、ひとしきり調べ物を進めた頃、ミャアが大あくびと共に目を覚ました。 「おはよ、アヤちゃん」 「ん。いい加減、着替えないとね」  昼には勝巳に会うというのに、髪はベタつくし、爪も汚れている。  シャワーを浴びようと、ようやく私も動くことにした。  着替えを出して浴室へ向かい、外出用の私服に着替え終わったのが九時過ぎ。  朝ごはんに目玉焼きを作ろうとキッチンへ入ると、食卓に置かれたメモ書きが目に入った。  書類の裏側にサインペンでメッセージを残したのは、母の他に有り得ない。  私が必ず読むように、席と向きも合わせて、一語のみ書かれていた。  “ごめんなさい”  反射的に紙を握り潰し、部屋の隅にあるごみ箱へ放り投げる。  的を外した紙球は、床を転がってテーブルの下へ潜り込んだ。  朝になって冷めた頭で考えれば、母への怒りはさほど感じない。  どうでもいい、くだらない、そんなネガティブな思考ばかりが渦巻く。  自暴自棄と言われそうな自分が腹立たしく、ただただ気が立って、謝罪を受け入れることを拒絶した。  八つ当たりに近いと、理屈では分かっているのだが。  珍しく寡黙なミャアへ、これもとばっちりであろう嫌味をぶつける。 「また朝ごはん食べたいの? 気楽でいいね、カワウソは」 「食べないよ」 「へえ、我慢するんだ」 「ボクがいると、気が散るでしょ。一人でゆっくり食べなよ」  ミャアにまで、気を回されるとは。  私の不機嫌さを敬遠したとも考えられるけれど、ペラペラ喋りたくないのは事実だ。  トーストの上に目玉焼きを乗せ、オレンジジュースをなみなみとグラスへ注ぐ。  何日と続けた独りの朝食が、今朝はパンを噛む音が気になるほど、やけに静かだった。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加