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第5話 5000兆円で買ってみた
「まとまったお金を使うなら、やっぱり何と言っても家でしょ。家なら億単位でお金が飛ぶわ」
美知子の言葉に、和夫は思わず唾を飲み込んだ。300万円の借金を返す目途も立っていなかった自分には一生縁のないものだと思っていた、家の購入。
和夫の会社の同僚にも、マイホームを買った人間が何人かいる。彼らは一千万円以上の大金をポンと支払っては、それを一生かけてローンで地道に返している。家を買うこととは、自分の暮らす場所を決めること。自分の暮らす場所を決めることとは、つまり生活の基本骨格を決めることだ。高い買い物なだけに、一度決めてしまったらもう簡単には軌道修正できない。
和夫は、家を買うだけの金が無いというみじめな気分を紛らわすという目的もあって、日頃から「家を買うなんてのは、自分から逃げ道をふさいでわざわざ危険を背負い込むバカのやることだ」と言っていた。
災害で家が壊れたらどうする。街並みが変わって自宅の周りの治安が悪くなったらどうする。そうなった時、ローンで家を買ってしまっていたら何も身動きが取れないじゃないか。
その点、社会状況の変化に合わせて臨機応変に対応できる借家住まいの方がずっと賢いに決まっている。それに、自分の家は壊れたら自分の金で修理しないといけない。そういった修繕費も含めたら、実は持ち家も借家も、一生に払う費用の総額はほとんど変わらないという話をどこかで聞いたことがある。だったら、リスクの少ない方を選択するのが賢い人間のやることだろう。
半ば自分自身に言い聞かせるような感じで、和夫はずっとそう固く信じ続けてきた。そんな所にいきなり「自宅を購入しよう」などと突然言われても、浮かんでくるのは「家なんて、そんな気軽な気持ちで買ってしまっていいのだろうか?この頼りない自分に、果たしてそんな資格はあるのか?」という恐怖だけだ。
家は一生に一度の大きな買い物。そんな重大な買い物を軽率には決められるはずがない。家を買おうと思ったら何年も前から綿密に準備して、徹底的に何件も物件を調べ尽くして、それを実行できた人間だけに初めて買う資格が与えられるものではないのか。そしていざ買う段になったら、前日に斎戒沐浴して身を清めてから店に行くくらいの心構えが必要なのだろう――そんな大げさなことを、和夫は半分本気で考えていた。
そんな状態なので、そもそも和夫には、家を買うためにはまず何をすればいいのかすら全くイメージが湧いていない。お金があっても、買う方法が分からないのだ。
しかも彼らが買おうと考えているのは、一般庶民が買うような一千万円から数千万円といった普通のマイホームではない。一億二億、あるいはそれ以上の値段がする大豪邸である。そんなもの、一体どこに行って誰に話をすれば買えるものなのか。
あまりに漠然とした雲をつかむような話で、和夫は途方に暮れた。
「とりあえず、広尾に新しく建つこの新築のタワーマンション見に行かない?一部屋2億円からだって!すごいわね!世の中にはこんな家を買える人もいるのね……」
そう言いながら美知子が和夫にスマホの画面を見せた。そこには彼女が検索で見つけてきた都心の超高級マンションの広告が表示されていた。そこには
「誕生。選ばれし人のための、静謐でハイクラスな都心のレジデンス」
という、取りようによっては嫌味にも聞こえる厳めしいキャッチフレーズと共に、センスのいいシックなこげ茶色の外壁の高層マンションの完成予想写真が載せられている。
正直、和夫は気乗りしなかった。あまりに急すぎて心の切り替えができていないのと、こんな金持ち臭い奴らと一緒に暮らすのは嫌だな、という生理的な嫌悪感があった。
だが、2億円以上もするマンションというものが一体どういうもので、どこに行ってどういう話をすれば買えるのかという問題に対する手がかりとして、これ以上のものが二人には思いつかなかった。そこで和夫は、物は試しに一度そのマンションのモデルルームに行ってみることにした。
電車と地下鉄を一時間以上乗り継いでたどり着いた都心のモデルルームは、入り口からして高級ホテルのようにスマートだ。自分は客なんだから別に気張る必要はないだろう、とラフな普段着で来てしまったことを和夫は後悔した。
「いらっしゃいませ」
一分の隙も無くスーツを着こなした、礼儀正しい営業マンが案内に立つ。完成予定のマンションの大きな模型と、1分間ほどの仰々しい宣伝動画を最初に見せられ、その後にモデルルームの中に案内された。
さすがに2億円以上もするマンションなだけに、室内は驚くほど広々としていて、深みのあるこげ茶色を基本とするインテリアの装飾もセンスがいい。
まるでホテルのスイートルームのように生活感のない調度品は、下手にゴテゴテと飾りを付けず、一見すると物足りなく見えるくらいにシンプルだ。何も飾りがないところが逆に、この部屋に置かれたあらゆるものが並外れた高級品であることをはっきりと示していた。
とにかく高価なものであれば何でも大好きな美知子は、それだけでもうテンションが上がってしまっていて、目をキラキラさせながら営業マンの話に甲高い声で熱心に相槌を打っている。
その一方、もともとマンションなどに全く興味のない和夫は、モデルルームを見学している間、その心中は部屋の内装の確認どころではなかった。案内に立ってくれた営業マンが、明らかに自分たち夫婦を警戒した目でジロジロと見ていたからである。
日頃から金持ち客を相手にしている営業マンの態度はとても礼儀正しく、横柄なところは何もない。それなのにどこか視線が冷たく、物腰の端々に「何だコイツ」と軽蔑するような態度が感じられる。そりゃ当然だよな、と和夫自身も思う。
モデルルームを見学している他の人達は全員、何の変哲もない普段着のくせに、どことなく高級感が漂うシャツとスラックスを着ていた。背筋がピンと伸びて態度も堂々としていて余裕がある。別に豪華に着飾っているわけでもないのに、この人はきっとどこかの会社の偉い人か、あるいは医者や弁護士なのか、社会的な地位が高くお金を持っている人なんだろうなと、雰囲気だけで一目瞭然だった。
それに対して、5000兆円の資産を持つ自分が着ている、このくたびれたジャンバーはなんだ。量販店で4割引で買って、もう6年も着続けてヨレヨレになった代物だ。その下に履いている古い安ジーンズは、カッコよく履き込んでダメージ感が出ているわけではなく、単純に色が剥げてボロボロなだけだ。膝にはみすぼらしい穴があと少しで開きかけている。
その点、浪費癖のひどい美知子の服装の方がまだ違和感がなかった。彼女は5000兆円が手に入ってすぐに買い揃えた最高級のブランド品で、頭の上から足の爪先までを完璧に固めている。身に着けているものの値段だけを合計したら、周囲の金持ち客と比べても決して遜色はないだろう。
ただ、彼女は服を選ぶときに、どうしてもパッと見た時の派手さと値段の高さだけに目が行って衝動買いしてしまう癖があった。そのせいで、全体のコーディネートがどこかバランスを欠いていてけばけばしい。各部分のアイテムだけを見れば確かに最高級の上質なものなのだが、全部が集まると不思議なほどに成金趣味が漂う。
そんな不釣り合いな恰好をしたちぐはぐな二人が、平日の昼間から2億円以上する高級マンションを見学に来ているのだ。明らかに堅気の客ではないな、と営業マンが見た目だけで判断するのも無理はなかった。
一通りモデルルームを見学した後で二人は商談ブースに通され、営業マンとの会話が始まった。だが、営業マンの態度がいかにもそっけない。美知子は、五つ星ホテルのような洗練されたマンションの内装にすっかり心を奪われ、熱心に質問をするのだが、営業マンは困ったような顔を浮かべながら必要最小限のことしか答えない。
そのうち、興奮気味に次々と質問をぶつけてくる美知子の話を無理矢理切り上げるような形で、営業マンが言いにくそうな表情で和夫に尋ねた。
「ところでお客様……、お客様がお考えになられているご予算は、どの程度でございましょうか?」
和夫は憮然として答えた。この野郎、俺が金を持ってないとでも思ってやがる。
「3億でも4億でも、必要であればいくらでも出すよ。即金で」
その不機嫌そうな答え方が、逆に営業マンの警戒心を強めた。
このくたびれたジャンバーを着た見るからに金の無さそうな男が、普通に考えて3億や4億もの大金を持っているはずがない。隣に座っている水商売風の女は妻だというが、単なるヒモではないのか。この男、単なる冷やかしか嫌がらせか、あるいは反社会的勢力の関係者か。
いずれにせよ、もし仮にこの男が本当に3億4億の金を用意できたとしても、会社経営者や医者、弁護士といったハイクラスの人達が集まる予定のこのマンションに、このような品のない人間はできるだけ入居させたくない。他の入居者とトラブルを起こすかもしれないし、そうなるとマンションの格が下がる。
この手の超高級マンションを買うような富裕層は、当然ながら投資目的の転売も視野に入れている。そして、マンションの価値が下がるような事態が起きれば、ごく当然のように理路整然と文句をつけてくるような類の口うるさい人種でもある。
それだけに、営業マンはお金を出した人にただ部屋を売るだけではなく、客がこのマンションに住むに値するだけの人間かどうかを見極めることが求められていた。そして、このマンションの「格」に釣り合わない人間に対しては、あれこれ理由をつけて丁重に販売をお断りし、入居後のトラブルの種を排除しなければならない。
「即金でございますか……。大変失礼ながらお客様、その購入資金は、現在お持ちのマンションなどを売却してご用意されるのでございましょうか?」
「違うよ。もう現金で持ってるから払えるんだよ3億でも4億でも」
「それは……例えばご親族の方のご遺産などでございましょうか?」
「違うって。いいだろ別にどんな金だってよ」
ぶっきらぼうに言い放った和夫の言葉に、営業マンの表情が明らかにこわばったのが目に見えて分かった。
この瞬間、和夫と美知子のお金は出自の明かせない後ろ暗いお金で、二人は反社会的勢力の関係者である可能性がきわめて高いと営業マンに認定されたようだ。
「ご気分を害してしまって誠に申し訳ございません。ですが……何分にも大変高額なお取引でございますから……私たちとしましても、大変失礼ながらお客様のご資金計画というのは、事前に必ず確認しなければならないと会社の規定で定められておりまして……」
とても慇懃に、しかし固い口調で営業マンが謝罪した。日々、礼儀にうるさいセレブな客ばかりを相手にしているだけあって営業マンは徹底的に訓練されており、頭を下げる時もきちんと背筋を伸ばし、あくまで礼儀正しい。
その隙のない謝罪からは、失礼な発言については謝るが、自分の意見は絶対に曲げないという断固たる決意が明確に感じられた。
和夫は、自分が見下され、バカにされているように感じて声を荒らげた。「ちょっと、やめなよ」と美知子が止めるのも聞かなかった。
「何なんだよそれ。うるせえな、金はあるから今すぐ全額払うと言ってんだろ。何だったら今ここに3億4億積んで、その場でお前に渡してやってもいいんだぞ」
しかし、百戦錬磨の営業マンは一切ひるまない。何一つ表情を変えず丁寧な口調を保ったまま、静かに和夫をたしなめる。
「申し訳ございませんお客様。マンションで暮らすために必要なのは、何も購入代金だけではございません。
入居者の方に月々お支払いいただく管理費、修繕費は、マンションの購入価格に応じて上がりますので、大変申し上げづらいのですが、このマンションの管理費、修繕費のご負担はかなり重いものでございます。
ですので、マンションの購入時に十分なご資金をお持ちのお客様でも、その後の管理費、修繕費が払いきれずに手放さざるを得なくなるといった大変悲しいケースも多々ございます。それに、このマンションは都心の一等地にございますので、周辺の商店や日用品のお店もそれなりのお値段がするものでして……。
我々としましては、せっかく我々のマンションをご購入いただいたお客様に、そのような辛い思いをして頂きたくないという切実な思いから、大変恐縮ですがご購入の段階で、お客様のご職業ですとか、収入といった立ち入ったことまで事前にお伺いしておるのです。
我々のビジネスは、単にマンションを売るのではなく、お買い上げ頂いたマンションを通じて生まれる、お客様の幸せな暮らしをご提案することだと考えております。
ですので、お客様の現在の暮らし向きをお伺いした上で、最初にご希望されていたマンションとは違った、そのお客様のライフスタイルに最も合ったマンションをご提案させて頂くこともございます。その点を、お客様には何卒ご理解を頂きまして……」
「もういい!帰る!バカにしやがってこの野郎!」
営業マンの言葉が終わらぬうちに、和夫は怒鳴りつけて勢いよく席を立った。バカ丁寧にごまかして言っているが、要するに彼が言っているのは「お前は金が無さそうだからここには住ませたくない」ということだ。
もっと話を聞きたかった美知子は不満げだったが、「すみませんね、ごめんなさいね」と平謝りを繰り返す美知子を後に残したまま、和夫はずんずんと速足で歩いてモデルルームを後にした。
いまの自分たちには5000兆円がある。
だから、営業マンの言う高い管理費だの修繕費だの、都心一等地の物価だの、そのんな些細な出費などは実際問題、全く屁でもない。
だが、自分たちは無職だ。
たとえ5000兆円を持っていても、無職の人間に物は売れないだと。
ナメやがって。こんな嫌味なマンションなど、こっちから願い下げだ!
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