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その日、神子都の具合が良くなったのは日が傾く頃だった。
お粥を食べた後の空になったお椀と水を飲み干した湯飲みが布団越しに置いたままである。
神子都は座敷から廊下に出て直ぐの縁側に一人座っていた。
庭は地面に敷き詰められた砂利に波紋を、剪定された松の木は横に伸びた枝が龍を連想させるように曲を描いている。置かれてある景石と灯籠は景色に溶け込み、まるで一つの画のようだ。
「駄目だなぁ私ったら……」
神子都は独り言を呟き、肩に掛けている薄桜色の羽織をギュッと握った。
(自分の思い過ごしで、ぎゃあぎゃあ騒いでしまって……)
あの後、勘違いをする神子都に鎖々那は誤解を解いたのだ。
(私を着替えさせてくれたのは巫女さんだという事は、少し考えればわかる事じゃない。お狐さまの嘘を真に受けて醜態を晒し、挙句、枷宮羅さまにまで見られたなんて……)
「はぁ……」と、溜息を吐く。
朝から付き添ってくれた鎖々那は昼間に『少しの間、出掛けて来る』と、優しく伝えて部屋を出て行った以来、姿を見ていない。
(あんなに笑ってくれるけど本当は私の事をどう思っているのだろう?)
背中を丸めて俯く神子都は、砂利を踏む音を聞いて正面を向いた。
「可愛らしい娘さんね」
庭で一人ぽつんと立っている女の人が神子都を見ていた。
女の顔は市女笠の垂れ布でよく見えない。
「えっと、神社にお参りしに来た方ですか?」
「ええ。少し、迷ってしまって……」
とても穏やかな口調だ。
神子都は道案内をしてあげたい気持ちではあるが、生憎、襦袢に羽織という格好だ。表に出るにはだらしのない格好であり人様には見せられない。(否、現に見られているが)
「本殿なら此処から真っ直ぐ行って突き当たり……の……?」
目を見開く神子都の眼前に、いつの間にか女が居たのだ。
女は細い指に白魚のような両手を伸ばし、神子都の頰を包んだ。
「あの……?」
「近くで見ると、より愛らしいわ」
垂れ布の隙間から至近距離で見えた女の顔。
切れ長の眼に、口先を吊り上げ、赤い唇を薄っすらと開く。言葉で表現するのなら『艶麗』が似合うだろう。
「“あの狐”には勿体無い……」
女の顔が徐々に神子都の顔に近付く。
相手が女でも恥ずかしくなる距離に、神子都は頰を赤く染めながら両手に包まれる顔を無理矢理に背けた。
「やめてくださいッ!」
拒絶する声を上げると左側の頰にビリッと裂けた痛みが走る。
同時に女が地面を跳躍して後退し、神子都から距離を取った。
市女笠が宙を舞って地面に虚しく落ちる。
神子都は瞑った目を開くと、自分と女の間に男が一人。
(誰……?)
男は右手に刀を持ち、黒い小袖に膝下を細くした黒の山袴という格好で、さらりとした黒い短髪には藍色が混ざっていた。
男は神子都に背中を向けている為、神子都から男の顔は伺えないが頭に鎖々那と同じ獣のような耳がピンッと立っていた。
「“あの狐”に仕えし狐かえ。なるほどのゥ……」
愉快に話す女は市女笠が取れた事で全貌を明らかにした。
血色の悪い肌は青白く、艶麗な顔立ちは赤い唇を際立たせ、綺麗に切り揃えられた長い黒髪は何処かのお姫さまのよう。
「――神子都殿!」
バタバタと廊下を走る音がする方へ振り向くと、鎖々那と威縄が血相を変えて駆け付けた。
「お狐さま――!?」
座ったままでいる神子都の隣に膝を突いた鎖々那は、神子都の肩を抱き寄せた。
掴まれた肩が力強い手によって痛みを感じ、神子都は顔を少し歪ませるが、視線を上げて鎖々那を見ると、縦長に細くなった瞳孔で女を睨み付けていた。
見ている側も恐れてしまうような眼に、神子都は思わず息を呑んだ。
「“狐神”の嫁に手ぇ出すたぁ良い度胸じゃねぇか! 女狐!」
と、何処からか聞こえて来た威勢の良い声の正体は、屋根から飛び下りて来た枷宮羅であり、片手に持った槍を女に向けて振るった。
しかし、その切っ先は届かず、舞を踊るようにくるりと回って軽やかに避けられた。
「勢揃いで主らが来たのでは妾が花嫁を連れて帰る事は出来ぬのゥ。此処は主らに免じて妾が身を引こう」
クスクスと笑いながら女は地を蹴り、跳躍したまま庭の近くに並ぶ楠木に移動した。そのまま木から木へと身軽に飛び移り、森の中へ進んで行く。
「斬実!」
「御意!」
「俺も行くぜ!」
鎖々那の呼び掛けに黒い小袖の男は木々を飛び越え、続けて枷宮羅も後を追った。
嵐のように過ぎ去った出来事に神子都が呆然としていると、肩を掴まれていた手が離れた。
「すまない……」
「え?」
鎖々那を見ると其処に微笑みは無く、悲しい表情をしていた。いつもピンッと立っている獣の耳が今は垂れ下がっている。
(耳が垂れてるお狐さま、可愛い……)
今思う事では無いが、鎖々那の感情表現に神子都は不覚にも胸がときめいてしまった。
「神子都殿に怪我をさせてしまった」
「あ……」
そういえば、と思い出し、神子都は自分の指先で左の頰に触れてみると、ぬるりとした生暖かい水気のある感触が指先に伝わった。
細長い四本の横線が左の頰に刻まれ、指先に赤黒い血が付着する。
原因は女が神子都から離れた際に、爪で引っ掻いたのだ。
「手当てを……」と、鎖々那は少し焦り気味である。
神子都は汚れていない方の手で、鎖々那の左手に、そっ、と触れた。
「私は大丈夫です。ちょっと切れただけですから」
「神子都殿……」
眉をひそめる鎖々那に、これ以上心配掛けまいと神子都は笑ってみせた。
「――ねえ、いちゃいちゃするのはそっちの自由だけど、僕の存在忘れないでくれる? というか、忘れてるよね?」
苛立ちを含む威縄の声に、はっ、と気付いた神子都の顔に熱が集中していく。
「い、いや、これは!」
鎖々那に触れていた手をパッと離す。
「威縄、悪いが傷薬を持って来てくれないか?」
「はいはい。持って来ればいいんでしょ?」
文句を言いながら踵を返す際に、威縄と目があった神子都は鋭い目付きで睨まれた。
威縄は足音を乱暴に立てながら廊下を歩いて行った。
(私、嫌われてる?)
威縄を窺っていれば怪我をした左の頰に手を添えられる。
「深く切られてはいないみたいだな」
小さく息をついて安堵した鎖々那は苦笑した。それでも耳が垂れ下がったままだ。
女が何者なのか気になる神子都ではあるが、今は不安な表情を浮かべている鎖々那を放っておけない。
「お狐さま、きっと傷は消えます。だから、そんなに心配しないで下さい」
ふふっ、と笑う神子都に鎖々那は目を見開く。
そして目を細めて「これは、まいったな」と、呟いた。
「嫁に心配される“狐神”が居たなんて知れたら、周りはどう思うのだろうな」
「!? わっ、私っ、そっ、そ、そんなつもりじゃ……」
カッと頰が赤くなり恥ずかしくなる。
「ははっ。わかっている」
獣のような耳を真っ直ぐ立たせて小さな笑い声を上げる鎖々那に、神子都は見惚れてしまった。
(ああ、そうだ。この人は私の夫なんだ……)
人とかけ離れた相手と自分は祝言を挙げたのだと、神子都は改めて考えさせられた。
「そういえば。お狐さまは出掛けていたのでは?」
「ああ、出掛けてはいたのだが神社に邪な気配を感じて直ぐに戻って来た次第だ。……今日、起きた事は明日話そう」
これ以上は聞けないな、と思う神子都は小さく頷いた。
今回起きた出来事は、神子都にとって気掛かりで仕方なかった。
あの女は何者で、どうして自分に近付いたのか。
他人事では済まされない、と、直感が働く。
(私は知るべきだ。否、知って行こう。お狐さまの事を。お狐さまを悲しませない為にも)
膝に置いた手を無意識に握り締めた。
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