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日の出前に目を覚ました神子都は、眠たい目で天井の木目を見詰めていた。
そのまま首だけ動かして隣を見ると、綺麗に整った寝顔が目の前にあった。
神子都は目を見開き、勢い良く半身を起こす。熱が集中する顔を両手で被った。
(朝から刺激がぁぁぁぁっ!)
一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。起きて早々、心臓が激しく動く。何故なら、鎖々那が神子都の方を向いたまま小さな寝息を立てて眠っていたのだ。
二人しか居ない藺草が香るこの座敷は、夫婦関係を持つ神子都と鎖々那が共用する寝床である。
(慣れろ! 慣れるんだ私! ああもうっ、お狐さまを見ただけで何でこんなに恥ずかしくなってしまうのっ!?)
それもその筈。鎖々那が眉目秀麗の顔立ちであり、神子都は今までの人生の中で鎖々那のような綺麗な男と関わった事が無い。
男女関係において赤面してしまうのも、神子都が純粋に“初”であり、神子都本人に“その自覚”が無いのだ。
一人で恥ずかしがっていると、顔を被う左手の指先に違和感を感じた。
左の頰に貼られた四角い油紙。油紙の下に傷口を塞ぐ軟膏が塗られてある。
(あの“女の人”は……お狐さまは、その事に関して後で話すと言ってくれたけど――)
昨日、神子都と出会った“女の人”……否、“人”と扱っていいのかわからない存在は、神子都に近付き、神子都の左の頰に血が出る程の引っ掻き傷を付けて逃げ去った。
逃げ去った“女”を鎖々那の指示に従う斬実と呼ばれた男と、枷宮羅の二人が跡を追った。
二人が稲荷神社に戻って来たのは辺りが暗い夜になった頃で、鎖々那が二人を迎えに神社の本殿まで行く姿を神子都は部屋から見送ったのだ――。
(お狐さまが昨晩に枷宮羅さまともう一人の方を迎えに行った後、暫くして部屋に戻って来たのだけれど、結局“女の人”がどうなったのかは話してくれなかった。その事も今日の内に話してくれるのかな? ……取り敢えず!)
両手で軽く顔をを叩いた神子都は気合いを入れた。
(今やるべき事は着替えて起きなくちゃ! お狐さまはいつも朝餉はどうしているんだろう?)
うーん、と神子都が考えていると淡黄色に染めた襦袢の袖をグイッと引っ張られた。
隣を見ると布団に横たわったまま鎖々那が眠たそうな顔をしながら起きていた。
「あ、起こしちゃいましたか?」
「……起きていたのか?」
問い掛ければ問い掛けられた。小さい声は寝起きの声色で、また眠りにつきそうだ。
「朝の支度をしなきゃいけませんから」
「神子都殿……」
「何でしょう?」
ゆっくりとした動作で鎖々那は起き上がると、そのまま神子都の肩口に顔を埋めた。
予想外な相手の行動に神子都は驚くあまり「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、次には顔に熱が集まり、恥ずかしさが沸騰するお湯のように湧き上がって来る。
「あ、あああ、あのっ、朝から、こういうのは、ちょっと……」
動揺していると神子都の後頭部に右手が添えられ、腰に左腕が回される。
「わあっ!」
そのまま抱き締められる形で神子都は鎖々那と共に布団に倒れた。
(これが、お狐さまの……)
密着する身体から鎖々那の体温を感じて、ギュッと目を瞑っては熱い息を吐く。
抱き締められたまま横たわる行為は神子都の鼓動を加速させ、思考は急上昇した熱の所為で上手く回らない。
もぞもぞと動く鎖々那の片脚が神子都の脚の間に入り込み、神子都は羞恥心に侵される。
「駄目ッ……」
「朝の支度なら蟹がいる」
「…………え?」
顔を上げれば頭上に鎖々那の顔があり、瞼を閉じたその表情から寝息が聞こえて来た。
(蟹? え?)
鎖々那の発言に困惑する神子都は、何十杯の蟹がせわしなくシャカシャカと横歩きしながら台所で調理している姿を思い浮かべる。
(もしかして、寝惚けてた?)
考えから腑に落ちた神子都は安堵して盛大な溜息を吐いた。
(なんだ、寝惚けていたんだ。良かった。じゃなきゃ私の身が保たな……否、待って)
安心するのも束の間。
神子都は眠っている鎖々那に抱き締められて身動きが出来ない。
手を使って起き上がろうにも神子都の両手は抱き締められた拍子に思わず身を縮めてしまい自分の胸元に収まっている。
(どうしよう。此処からどう抜け出せばいいの? お、押してみる……とか?)
と、眠っている鎖々那の胸板に両手を付けた。
(ごめんなさいっ!)
ギュッと目を瞑って胸板を押してみる。
身体を押し退ければ眠っている鎖々那が離れて自分が起き上がれる……というのが神子都の考えであるが、それは残念な結果に終わった。
(ビクともしないよぉぉぉぉっ!)
泣きたい気持ちでいっぱいになった。
鎖々那の身体が動く事は無く、神子都を抱き締める両手両腕の力が緩む事も無かった。
「――ん?」
右腕に痺れを感じて目を覚ました鎖々那は、視界いっぱいに入る神子都の寝顔を見詰めた。
「どうして神子都殿が……?」
至近距離で寝ている神子都が、右腕を枕にして眠る状況に鎖々那は小首を傾げた。
鎖々那は半身を起こし、気を付けながら神子都の頭から右腕を擦り抜く。
それから少し背伸びをして寝相で乱れた襦袢の衿を正した。
(そろそろ朝餉の支度が出来た頃合いだ……な?)
と、思った言葉が妙に引っかかる。
(朝の支度が、どうとか話していたような……?)
日が昇る前のまだ薄暗い部屋に居る、長い黒髪に襦袢姿の神子都が脳裏をよぎる。
すると「お狐しゃま?」と呂律が回らない神子都の声。
「神子都殿」
「やっと、起きたのですね……」
目を擦りながら体を起こす神子都は、その眠気ある目で鎖々那を見る。
「『やっと』?」
「一度、起きたの覚えてませんか?」
「確か、起きていた神子都殿を見て俺も起きようとしたのだが、また寝てしまったみたいだな」
「その後の事は?」
「『その後』とは、どういう事だろうか?」
キョトンとした顔をする鎖々那。つまり鎖々那自身、神子都を抱き締めて寝た事は全く覚えていなかったのだ。
神子都は落胆し、脱力する半身は座ったまま前屈みに倒れ、額が布団に突いたと同時にゴツと鈍い音を立てた。
「神子都殿?」
「否っ、いいんです!」
倒れた半身を忙しなく起こして、両手で顔を被う。鎖々那の腕枕で二度寝した経緯を話さなければならない事に気付いた神子都は一人勝手に赤面しては恥ずかしくなる。
「いっ、今のは忘れて下さい!」
「それなら、何も聞かないでおくが……」
「おはようございます、“狐神”さま。神子都さま」
閉ざされた襖の向こうから聞こえて来た声に神子都は吃驚して肩を揺らした。
「朝餉の準備が整いました。居間にお越しくださいませ」
「ああ、わかった」
鎖々那が返事をすれば、足音が遠ざかって行く。
姿は見えなかったが神子都は声に聞き覚えがあった。
それは昨日、神子都が具合を悪くして寝込んで居る時に、鎖々那と共に部屋に訪れた巫女の声だ。
「さて、着替えるとするか。神子都殿は――」
神子都に話を振ると、振られた本人は正座したまま鎖々那に背中を向けていた。
初々しい態度を見せる神子都の姿に、鎖々那は思わず、フッ、と笑みをこぼした。
「寝床の隣は神子都殿が使う間になっているから、そこにある襖で此処と仕切って分けられるが」
鎖々那は室内にある襖を指差した。
「私が使う座敷ですか!? あ、いや、べ、べべべ、別に、後ろを向いた訳は特に無くてですね!」
「早速と使ってくれて構わないよ」
少し笑いの混ざった鎖々那の声に、神子都は自分が起こした行動に恥辱を感じて涙目になる。
(自分が情けないよぉ……っ)
その後、神子都は言葉に甘えて襖で自分の座敷となった場所を鎖々那が居る寝床を仕切って着替えたのだった。
* * *
着替え終えた神子都と鎖々那は中座敷を通って床が板張りの玄関の間を下り、外に出た。
井戸に向かうその途中、見ず知らずの巫女たちに「おはようございます」と頭を深々と下げられる神子都は戸惑いを見せた。
鎖々那は巫女たちの顔を一瞥しては微笑み「おはよう」と返す。
「お、は、おはようございます」
言葉を噛みながら頭を下げる神子都は先行く鎖々那の後に付いて行く。
(なんだか、偉い人になっちゃった気分……)
礼儀正しい巫女たちを前にした事で緊張感から早く脈打つ。
外に出れば天気は良く、気温も心地良い。絵に描いたような庭は、草木が日差しの反射でキラキラと光っている。
庭を見回していた神子都の着物姿を鎖々那が凝視していた。
「何か?」
「神子都殿はいつもそのような姿格好で普段を過ごされているのか?」
長い黒髪を後ろで一つに纏めて襟足首のところで緩く結っており、赤褐色の小袖と、黒色の帯に白い花柄の刺繍が施されている。
何故、自分の格好を聞かれたのか小首を傾げた神子都は答える。
「そうですけど……もしかして神様であろうお方の隣を歩くには相応しく無い格好でしょうか!?」
歩く足を止めて、わたわたと手を動かし動揺する神子都の顔は青ざめる。
「そんなつもりは無いよ。ただ、神子都殿の普段着が新鮮に見えて、これが当たり前になっていくと思うと嬉しいような寂しいような気がしてな」
「そ、そうですか……」
鎖々那の想いに頰を赤く染めた神子都は顔を隠す為に俯いた。
(『当たり前』……そうだよね、これからは、ご飯を食べるのも一緒で――)
熱いのは顔だけでない。熱っぽい手で神子都は鎖々那の鴇色の袖口を軽く引っ張った。
「あの、手を繋いでも、良いですか?」
素直な気持ちを告げると、鎖々那は微笑みながら袖口を掴んだ手を優しく取って、その手を握った。
「喜んで」
二人の距離が、少しずつ縮まって行く。
繋いだ手から、お互いの温もりを感じて、神子都も小さく微笑み返した時。
「――朝からお熱いですね」
「っ!?!?」
突然の声に心臓が強く跳ねた神子都は繋いだ手を素早く離した。
鎖々那が後ろに振り向くと、一人の男が居た。
男は無表情で、藍色が混ざったさらりとした黒髪に黒い着流し姿。頭には獣のような三角の耳がピンッと真っ直ぐ立っていた。
「おはようございます。鎖々那さま、神子都さま」
無表情のまま男は丁寧に挨拶をして軽く頭を下げる。
「ああ、おはよう」
「おは、おはようございますっ。……えっと、何処かで?」
会った事があるような感覚に神子都は男を見詰めた。
「ええ、昨日」
肯定された返事に神子都の眉間に皺が寄った。
(『昨日』? あれ? 全然思い出せない!)
思い出そうと悶々としていると、男は神子都の左の頰に貼られた油紙を見た。
「神子都さま、怪我の具合はいかがですか?」
「え!? ああっ、これなら大丈……夫――」
(そうだ。何処かで見たことのある方だと思ったら、もしかして――)
記憶を辿った先にあったのは昨日の事。
神子都の左の頰を引っ掻いて爪痕を残した“女”を、神子都から遠ざけさせた男が一人。
黒い小袖に、黒の山袴。右手には刀を持ち、頭にあるのは真っ直ぐ生えた獣のような耳。
その姿を後ろからでしか伺えなかった神子都は、今、男の顔を知った。
「昨日の、助けて下さった方ですか?」
「はい。鎖々那さまの従者として、鎖々那さまの大切な方を御守りするのも俺の役目」
「いえ、そんな。その節はありがとうございました」
頭を下げた神子都は“大切な方”と言われただけで赤くなる顔を隠した。
「俺は貴女に頭を下げさせる程の事はしていない」
何一つ表情を崩さない男に対して鎖々那は困ったように笑いながら話す。
「そんなに畏まらなくてもいいぞ、斬実。さて、顔を洗って、皆で居間に行こうか。朝餉を食べずに立ち話では身が持たん」
話を聞きながら頭を上げた神子都は自分の手を見た。
まだ鎖々那と繋いだ時の手の感触が残っている。
(もしも、男の方……斬実さんが来なかったら、ちゃんと手は繋げていたのかな?)
斬実と話している鎖々那に視線を移す。
(少し、お狐さまに近付けた気がしたんだけどな)
繋いだ手を離してしまった事に神子都は残念に思っては苦笑した。
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