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鎖々那と斬実の二人と共に居間に来た神子都は、既に用意されていた御膳の前に腰を下ろした。
「ふあぁっ。おはよーさーん……」
大きな欠伸をしながら枷宮羅が居間に入る。
枷宮羅が着ている黄土色の小袖は衿元が乱れて、灰色の袴は何故か裾口を床に引きずっていて些かだらしのない格好をしていた。
「おはようございます、枷宮羅さま」
「姐さんは朝平気なんですねぃ。というか、俺の名を覚えててくれるなんて嬉しいねぇ」
眠気のある顔で枷宮羅は目を細めて神子都の右隣に腰を下ろした。
居間に居る者は枷宮羅の他に、若草色の小袖に紺鼠色の袴を清楚に着こなした灰色の髪の少年……威縄。
そして先程に庭で出会った、黒の着流しに藍色が混ざるさらりとした黒髪の男……斬実が居合わせる。
二人は鎖々那の左隣に並んで座り、神子都の真向かいに鎖々那が座る。
「では、いただこうか」
手を合わせた鎖々那は箸を持ち、鎖々那が御膳に乗った白米に手を付けたところで枷宮羅たちも朝餉を食べ始めた。
上下関係を表すような光景に神子都は戸惑いつつ箸を手に取る。
(な、なんだか、緊張するなぁ)
慣れない事から僅かに震えた手で味噌汁の入ったお椀を持つ。
湯気立つ味噌汁を少しだけ飲むと、野菜の甘みと味噌の風味が口に広がり、魚の出汁であろう香りが鼻腔を突き抜けていく。
(こんなに美味しい料理は誰が作っているのだろう?)
お椀の中の味噌汁を覗きつつ考える。
御膳にお椀を置いて次に茶碗に盛られた白米に箸を付け、掬った白米を一口食べたその瞬間、神子都に衝撃が走った。
(お米が! 一粒一粒ふっくらと炊き上がってる!)
炊いた米の出来栄えに感動する神子都はまた白米を一口。
「神子都殿、朝餉は口に合うだろうか?」
「とても美味しいです! それに、上手に炊けているお米を初めて食べました!」
目を輝かせながら話す神子都を疑問に思った威縄は眉間に皺を寄せ、枷宮羅も凝視する。
「姐さん、『初めて』って言いやしたけど、今まで何を食べて来たの?」
「えっ!? え、えっと……私の実家は農家なんですけど、その、母が炊くお米は硬くてですね……」
苦笑しながら話す神子都は茶碗に盛られた白米に目を向けた。
「代わりに私が料理しようにも、いつも『やらなくていい』と言われてて……」
自信無く話す神子都の姿を見た鎖々那は、婚礼の儀の時に泣きながら自分の生い立ちを話した神子都を思い出した。
「つまり、姐さんの母ちゃんは料理が下手だったって事ですかい?」
「あはは……。炊く事だけが苦手みたいで。お米以外の料理は本当に美味しいかったですよ」
へらりと自然に笑う神子都を窺う鎖々那。そんな二人を黙って見ていた威縄は苛立って、青菜のお浸しと一緒に口に入れた箸先を齧った。
「どうした?」
斬実は左隣で苛立っている威縄を窺う。
「別に……」
拗ねた顔を見せた威縄にそれ以上触れなかった。その一方で、鎖々那と神子都が会話を弾ませていた。
「でも、俺は神子都殿の手料理が食べてみたいものだ」
「わ、私が作る料理なんか今出ている朝餉ほど上手く作れるかどうか……」
照れてしまう神子都の姿に目を細めた鎖々那のその翡翠色の瞳には相手を想う気持ちが含まれている。
「それより。私ずっと気になっていたのですが、朝餉は誰が作っているのですか?」
「料理は神社の巫女たちが作っている。祝言を挙げた時に出て来た料理も巫女が作った手製のものだ」
「巫女さんにそんな役割が……ちなみに、巫女さんは、その……」
言い辛そうにする神子都に「此処に居る巫女は全員“人”でありますから」と、斬実が答える。
「此処の稲荷神社に居る巫女と神主は“人”であり、他は全て狐たちのみ」
「ざっくり例えやすと、鎖々那は“人”の世でいう殿様で、俺や斬実と威縄はその家臣。そんで、家臣に仕える役人が神主と巫女って訳ですぜ」
ぼーっとしながら肘を膝に乗せて話す枷宮羅は今にも寝そうだ。
「要するに皆さんは“主従関係”なんですね」
「そういう事になるかな」と、鎖々那は肯定した。
(良かった。私以外にも“人”が居るんだ)
稲荷神社に来てからまだ日が浅い神子都は、神社に“人”が居ないのではないのかと不安ではあった。
今まで“触れた事の無い存在”と共に生活をする覚悟はしていたが、神子都はまだ若く、同い年の娘と仲睦まじく可愛い簪や小物を買ったりして会話に花を咲かせ、色恋の話しで盛り上がり、胸をときめかせたい年頃である。
相談相手が居ないのは心苦しくもあり、かと言って嫁いだばかりの自分が簡単に弱音を吐いていいものではないと思っている。
「それに、仕える狐は百匹以上も居てな」
「百匹以上!?」
「とは言っても、従者である狐たち全員がこの稲荷神社に居る訳では無い。中には人の生活に混ざりながら生きる狐も居れば、偶に山から下りて来て境内で一日をのんびりと過ごしている狐も居る。皆には自由にしてもらっているのだよ」
穏やかに話す鎖々那を見て、神子都は“狐神”が良き神様であると思った。
すると、黙って朝餉を食べていた威縄が立ち上がり、すたすたと足早に居間から出て行こうとする。
「威縄?」
足を止めて振り向くその顔は不機嫌で、呼び止めた鎖々那と目を合わせようとしない。
「箸、換えて来るだけ」
棘のある言い方をした威縄の右手には箸が握られていた。その箸先が欠けていたのだ。
「お前、また箸噛んだな?」
呆れたような物言いをする枷宮羅を威縄は冷たい目で見下ろす。
「だから何?」
「箸も只じゃねぇんだぜ。“噛み癖”なんとかしろ」
枷宮羅からすれば注意をしただけの事が癪に触った威縄は態度を急変させた。
「うるさいなァ! お前には関係無いだろ!」
激昂し、荒立てた声が響き渡り、驚いて目を丸くした神子都は箸が止まる。
そのまま乱暴に足音を立てる威縄は居間から出た後、開け放していた襖を乱暴に閉めた。
静まり返ったその場は、神子都以外の者だけ朝餉を食べ続けた。
「……え? あの、威縄くんは?」
話しを振ると、味噌汁をズズッと一口飲んだ鎖々那は言う。
「今日の味噌汁、美味いな」
「いやいやいやいや! 威縄くん出て行っちゃいましたよ!」
焦る神子都の前で呑気に味噌汁を堪能する鎖々那と、その隣で無表情で朝餉を黙々と食べる斬実。
「良いんですか!? って! 寝てる!!」
隣に居る枷宮羅を見れば、右手に箸を、左手に茶碗を持ったまま口を開けて座ったまま寝ていた。
「威縄は少し難しい年頃になっているだけさ」
微笑ましく話す鎖々那に、それでいいのだろうかと神子都は悩んだ。
「んがっ。……あり? 俺、また飯食いながら寝てやした?」
短い睡眠から目を覚ました枷宮羅は、腑に落ちない顔をしている神子都と、何事も無かったように朝餉を摂る鎖々那と斬実の姿に首を傾げた。
居間を出て行った威縄はペッタンッ、ペッタンッ、と乱暴に足音を立てながら床の間を通って直ぐ傍の台所に向かう。
(……騒ぎ声、丸聞こえだし)
脳裏に浮かぶは昨日の出来事。
神子都が“女狐”に襲われ、左の頬を怪我した。
怪我を負った神子都に酷く心配したのか鎖々那の頭にピンッと真っ直ぐ生えている獣のような耳が珍しく垂れ下がっていた。
そして先程、朝餉を摂る際に神子都が自分の母親の話しをした時に威縄が見た鎖々那の横顔は、何かを思い馳せるような、切なく、決して良い表情ではなかったのだ。
(気に入らない。あんな顔をする鎖々那なんか……あの女がいけないんだ……)
足を止めて、歯をくいしばり、右手を握りしめれば持っていた箸が軋む。
(鎖々那を悲しませるあの女……僕は許さない!)
神子都の事を考えるだけで苛立ちが増す威縄の手の中で箸が折れた。
「――は……っ、へっくしょいっ!」
朝餉の途中、いきなりくしゃみをした神子都は『やってしまった』と赤面した。勿論、口元を袂で抑えたのだが、大胆なくしゃみは抑えきれなかった。
「親父寄りのくしゃみですね」
「いっ、言わないでください!」
斬実の冷静な分析に神子都は口元を隠したままだ。
「その内くしゃみした後『だぁーっ! こんちくしょーっ!』って言い出しやすぜ」
「そ、そんな事しません! 笑い話にしないでください! あっ、お狐さままで!」
俯きながら肩を震わせて笑う鎖々那に、恥ずかしさから神子都は涙目になる。
「すまんな。つい……はははっ」
「そんなに面白かったですか?」
静かに笑い声を上げる鎖々那と笑われて落ち込む神子都。
二人を傍観していた枷宮羅は特に鎖々那に注目していて、ふっ、と笑みを零した。
「さて、今日はどうするか。俺は神子都殿に神社と母屋周辺を案内しようと思っているのだが、良いだろうか?」
「本当ですかっ? 私、早くこの土地に馴染みたくて……迷惑じゃなければ此処に居る皆さんの事も知っておきたいです」
嬉しそうに微笑む神子都を斬実は味噌汁を啜りながら凝視する。
(『知っておきたい』……か)
と、斬実は鎖々那を一瞥する。
「姐さん積極的ですねい。俺の事なら何でも聞いて構いやせんぜ」
「枷宮羅はまず朝餉を食べた方がいいんじゃないか?」
「やべっ。全然、食ってなかった! また御膳下げに間に合わなくなっちまう!」
言われては茶碗に盛られた白米を掻き込む。そこに出て行った威縄が襖を静かに開けて居間に戻って来た。
威縄の右手には台所で交換したであろう箸を持って、ペタペタと居間を歩いて何も言わずに座っていた場所に再び腰を下ろした。
「箸、換えて来たかー?」
「うるさい白髪狐」
「んだと? 人が気にかけりゃあ反抗的な態度取りやがって。というか、白髪じゃねーし」
「というか、“人”じゃないでしょ。“狐神”に嫁が来たからって鼻の下伸ばし過ぎ」
嘲笑い、中傷し、枷宮羅を見下す。偉そうな態度を崩さない威縄に口を閉ざした枷宮羅は持っていた茶碗と箸を乱暴に御膳に置いた。
座っていた腰を上げ、立ち上がっては足を一歩踏み出したと同時に御膳を蹴飛ばし、威縄の胸ぐらを掴んで無理矢理に立ち上がらせた。
二人の背丈は差があり、胸ぐらを掴まれた事で爪先立ちになる威縄だが嘲笑う事を止めずに、眼前で睨み付けて来る枷宮羅から決して目を離さない。
床に倒れた御膳は乗っていた皿や茶碗が激しい音を立てて無残に畳の上に散らばる。
「あ、あの……!」
焦りと不安から困惑する神子都。しかし、険悪な雰囲気は収まる気配がない。
「なんだその言い草は。威縄、あまり調子に乗るなよ」
「殴りたきゃ殴れば? それであんたの気分が晴れるって言うならね」
挑発ともいえる威縄に怒りを覚え、憤怒の形相で枷宮羅は空いていた右手を振り上げた。
「やめてッ!!」
神子都から発した声は悲鳴に近かった。
殴り掛かろうとした手は、鎖々那が枷宮羅の手首を掴んだ事で制止した。
「神子都殿の前で恥を晒すつもりか?」
鎖々那の瞳孔が開き、縦長になる瞳は化け物のよう。
掴まれた手首は徐々に絞められ、枷宮羅の右手の甲に血管が浮き上がる。
殺気立つ鎖々那の威圧に、威縄の頭に生えた獣のような耳は垂れ下がり身体がカタカタと震え出す。
屈辱感に苛まれる枷宮羅は舌打ちをして、手首を掴む鎖々那の手を振り払い、威縄の胸ぐらを手離した。
ぺたん、と畳に尻もちを付いた威縄は、顔色を悪くながら震える身体を抑える為に左手で右腕を抱き込んだ。
「神子都殿、怖がらせてすまない」
浮かない顔をしたまま謝罪する鎖々那に神子都は首を左右に振った。
「平気です……」
神子都の胸の内は複雑になる。
「威縄」
名を呼ばれて激しく肩を揺らした威縄は青ざめた顔と涙目で鎖々那を見上げた。
「何が気に入らないのかは知らないが、お前がした事は気分が良いものではない。だから――」
「気分が最悪なのはこっちなんだよ!!」
叫ぶ威縄に鎖々那は目を見開く。
「『何が気に入らない』って? 鎖々那も、其処に居る女も、全部、全部、全部、気に入らないんだよ!!」
未だ震える身体を抑えながら、有りっ丈に叫んで苛立つ思いをぶつける。
「威縄くん……」
今にも泣崩れそうな少年の名を呟く神子都は、威縄に何もしてあげられない気持ちで胸が締め付けられる。
その時、重たい雰囲気の中で別の叫び声が響いた。
「ぎゃーっ! 何なんですか!?」
居間に来た一人の巫女が、目の前に広がる光景に叫んでは絶句する。
「あ、あのっ、これは……!」
弁明しようとする神子都の横を通り過ぎた巫女は居間にずかずかと入ったと思えば枷宮羅を目掛ける。
「……あの、巫女さん?」
巫女はぶちまけられた朝餉を見ては枷宮羅を睨んだ。
「また貴様かァ! 白髪狐ぇぇぇぇ!!」
怒鳴り散らし、巫女は持て余す力を右手の拳に集中させ、その拳は勢い良く枷宮羅の鳩尾にめり込む。
「ぐはっ!!」
鳩尾を殴られ、重心を失った身体は後ろに傾き派手に倒れた。
(え……えええええー?)
神子都の顔が引きつった。一体、何が起こったのか。何故、枷宮羅は巫女に殴られたのか。訳がわからない。
「また威縄さまと朝から喧嘩したのか、てめぇは! それでまた御膳ひっくり返しやがったな!? 飯も只じゃねぇんだよ! そこわかってんのか!?」
今度は枷宮羅の胸ぐらを巫女が掴み上げては喧嘩腰で突っかかって行く。
その隙に威縄は俯いたまま走って居間から出て行った。
「あ! 威縄くん!」
走り去る威縄を止めようとしたが、神子都は伸ばしかけた手を引っ込めた。
(私が止めたって駄目なんだ。誰か威縄くんの傍に居てあげなきゃ)
「お狐さま!」
と、神子都が鎖々那に振り向くと、鎖々那は突っ立ったまま首を垂れ下げて、それはもう酷く落ち込んでいた。
「お狐さま!?」
(何があったの!?)
特徴的な獣のような耳は垂れ下がり、表情も暗い。
「ごちそうさまでした」
「斬実さんんんん!?」
一番冷静な斬実は両手の平を合わせて朝餉を完食。
「ちょ、ちょっと待てって! 何で俺だけ殴られなきゃならねぇんだ!?」
「殴られて当たり前だろうが」
「酷くね!?」
「毎度、態と威縄さまに突っかかっては原因作ってんのおめぇだろぉが!」
仰向けの枷宮羅に馬乗りする巫女は殴る姿勢を崩さない。
「お狐さま!? どうしたんですか!?」
騒がし立てる巫女と枷宮羅の傍で、突っ立つ鎖々那に神子都は駆け寄った。
「俺は、威縄になんてことを……今度こそ嫌われてしまった……」
「ひゃあっ」
神子都の肩口に顔を埋め、鎖々那は身体ごと神子都に預ける。
「あのっ……重っ!」
立っている姿勢を保つ為に神子都は鎖々那の背中に両手を回して身体を倒れないようにする。
「千菊、御膳は此処に置いておくぞ」
「はい、わかりました。斬実さま見習え! 白髪狐ぇ!!」
「だからなんで俺だけ!?」
一方は荒れて、もう一方は落ち込み、何事も無いようにその場から立ち去る斬実。
(どうしたらいいの!?)
状況に手詰まりになる神子都は油断してしまい、伸し掛かる鎖々那の力に負ける。
「うわっ、ちょっと、ぎゃあ」
その場に倒れた神子都は同時に倒れて来た鎖々那の下敷きになった。
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