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 「御紹介に遅れました。“狐神(きつねのかみ)”さまに仕えし巫女、千菊(せんぎく)と、申します」  正座をして両手の指先を床にきちんと揃え、丁寧な言葉遣いの後、頭を下げる巫女こと千菊。  暴言を吐きながら枷宮羅(かぐら)の鳩尾を殴ったとは思えない気品のある姿に神子都は目を瞬かせた。  「御用あれば何なりとお申し付けください」  「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」  慌てながら神子都は千菊に向かって頭を下げた。  「表と裏の顔が違い過ぎだろ」  床に散らばった朝餉を拾い片付ける枷宮羅が溜息混じりに呟くと、口先だけ吊り上げた目だけ笑っていない千菊が怒りを堪える。  「そういえば! 千菊……さんは、こうして話すのは初めてだけど、会うのは初めてじゃないよね?」  枷宮羅から意識を逸らす為、話を振った神子都は千菊と年齢が近いお陰か軽い口調で話し掛ける。  「顔を覚えて下さったのですね」と、千菊は顔を綻ばせた。  神子都が話している事は、婚礼の儀の翌日に酒の飲み過ぎで具合を悪くした時、鎖々那(さざな)と共に部屋を訪ねた巫女の事だ。  「朝、部屋に訪れたのも千菊さんだよね? 声が似てたから」  今朝方、朝餉の支度が出来たからと部屋に訪れた人物が障子越しで、顔が見えない代わりに神子都は“相手の声”だけを覚えていたのだ。  「仰る通りでございますっ。顔だけでなく声まで覚えていて下さったなんて、有難き幸せでございますれば、この千菊、神子都さまのお申し付け全て受け入れましょう」  深々と頭を下げた千菊を前に苦笑する神子都は、どう返事をしていいのかわからない。  「てかよぉ……」  と、苦言した枷宮羅は居間の隅で暗い顔をしている鎖々那に目を向けた。  「いつまで落ち込んでんだよ! 鎖々那ぁ!」  「しかし、だな……」  ジトッとした目で枷宮羅を見る鎖々那は幽霊のよう。  「“いつもの事”じゃねぇか! 今日に限って、なんでそこまで威縄を心配すんだよ!?」  焦り気味に言う枷宮羅はあまりにも落ち込んでる鎖々那に困り果てる。  「……枷宮羅さまと威縄くんは、いつも喧嘩をするの?」  こっそりと話し掛けて来た神子都に千菊は苦笑する。  「日頃からこんな感じですよ。枷宮羅さまが御膳ひっくり返して、威縄さまに怒るのは指の数より多いですし、その度に滅茶苦茶になったご飯を、私が、いつも、いつも、片付ける羽目になっているって此処の狐さんたちはいつ覚えてくれるのでしょうかねぇええええ?」  腹の底から湧き上がる怒りは太い声によって現れ、枷宮羅は息が詰まった。  「だから今日は俺が片付けてんだろ!」  「当たり前です。白髪狐」  「白髪じゃねぇっつぅの! それより、姐さんは鎖々那をなんとかして下せぇよ」  立てた右手の親指を後ろに向ければ、其処には頭に生えた三角の耳が垂れた鎖々那の姿。神子都もその姿には眉尻を下げて困ってしまう。  「あの、お狐さま」  歩み寄り、鎖々那の前で両膝を床に着けた。  「神子都殿……」  「出て行った威縄くんを一人にさせてもいいのでしょうか? 私は此処に居る皆さんの事を、まだ知らないけれど威縄くん辛そうでした。それに――」  神子都は思い出す。威縄が出て行く際に、叫んだ言葉を。  「『全部、気に入らないんだよ』と言ったのは、我儘で言った言葉では無いと思います」  「それは……俺もわかっている」  戸惑う様子を見せた鎖々那は答える。  「ただ、弟のようにずっと傍に居た威縄が今はわからない。何を思い、何を背負い、何に傷付いているのか、一瞬にして威縄が見えなくなってしまった」  鎖々那が威縄に対する思いがどれだけ大切なものなのか神子都は気付く。  (お狐さまからして威縄くんは家族なんだ……) 「すまない、神子都殿に気を遣わせてしまって。俺が威縄のところに行ってやらないと」  「鎖々那は今日、姐さんに敷地内を案内するんだろ?」  腰を上げようとした鎖々那を止めたのは枷宮羅だった。枷宮羅は床に散乱した朝餉を片付け終えて五人分の御膳を重ねていく。  「威縄の事なら大丈夫だって。誰かに構ってもらわなきゃ泣いちまうようなガキじゃねぇんだ」  「そうですよ、“狐神”さま。私から見ても威縄さまは立派なお方です」  枷宮羅の話しに千菊が賛同した。  「ですから、そんなに落ち込まないでください。貴方さまが最も優先すべきお方は神子都さまなのです」  ふふっ、と微笑む千菊。  言われては気付く鎖々那は神子都と目が合った。神子都は頰を赤く染めて直ぐ俯いてしまったが、鎖々那は神子都を見詰め続ける。  「俺には、神子都殿に教えてあげたい事もあれば、見てほしいものがあるんだ」  鎖々那は伸ばした右手を神子都の頰に添えた。頰には油紙が貼られていて、その下は軟膏が塗られている。  神子都の左側の頰は突然と現れた“女の人”が付けた爪痕が残っているのだ。  「俺の傍に居てくれるか?」  表情を緩めた鎖々那を目の前に神子都は目を白黒させては胸が熱くなる。  「はい。お狐さま……」  頰に添えた手はそのままにして、互いに見詰め合えば二人の顔が少しずつ近付いていく。  頰を赤くした神子都はゆっくりと瞼を閉じて、鎖々那が少しだけ顔の角度を変える。  互いの唇と唇が重なろうとした時。  「お二人さん、そのままシてもいいけど俺ら居るからね」  平然とした枷宮羅の声に目を開けた神子都は視界いっぱいに収まる鎖々那の整った顔立ちに驚き、正面に突き出した両手で鎖々那を突き飛ばした。  「いい雰囲気だったのに!」  「イテッ! イテッ!」  「それに『シてもいい』とか、いやらしい!」  枷宮羅の肩を平手でバシバシ叩く千菊は心なしかはしゃいでいるようにも見える。  神子都は鎖々那に背中を向けて、両手で自分の頰を挟んだ。  (私ったら何をしようとしていたの!? お狐さまに手を添えられて、あの微笑みに見惚れて、そのまま――)  目を瞑り、鎖々那から口付けを待った自分を思い出し、声を出さずにいられなくなる。  「ひああああーっ! 鼻から火が出そう!!」  「いや、顔だから! 既に顔真っ赤だから!」  正座したまま半身を前傾姿勢にして悶える神子都に慌てる千菊。  その傍で突き飛ばされた拍子に背中を床板に強打した鎖々那は身体を震えさせて倒れている。  それを見た枷宮羅は仏様のような表情を浮かべて呟いた。  「先は長いぞ。夫婦なのにな」  赤面する顔で神子都が恐る恐る後ろに振り向けば、倒れている鎖々那の姿に「ひぃぃ!」と悲鳴を上げたのだった。  * * *  朝餉から、ひと騒動あって暫く経った――。  神子都は今、鎖々那に敷地内を案内してもらっている。  城のように大きな稲荷神社の本殿。その近くは木々が周囲を囲い、森に少し入ると小さな湧き水があり、普段から野菜を洗ったり飲み水として使われているという。  本殿から少し離れた場所にある大きな民家は鎖々那と神子都が二人で暮らす母屋(おもや)であり、食事の時だけ枷宮羅たちと共に過ごす場所である。  母屋から離れた奥に大小と並ぶ屋敷が二件建っており、大きい方は二階建ての離れ家で枷宮羅や威縄たちが暮らす場所で、小さい離れ家は千菊を含めた巫女たちが暮らしている。  神子都は母屋で(かまど)がある土間を見た時、料理する空間が実家より広い事に驚き、六つある竃や、沢山の調理器具目をやったりと興味津々な様子を見せていた。  「――大体は把握出来ただろうか?」  広い庭を歩く鎖々那と神子都の姿。  「何とかなりそうですっ」  明るい笑顔で答えた神子都に鎖々那は一瞬だけ目を丸くさせて直ぐに笑みをこぼした。  「今日の夕餉は神子都殿が作ってみるか?」  「え? えぇ!? でも、そんな事をしたら巫女さんのお仕事を取り上げてしまうのでは!?」  「夕餉を作るという事は否定しないのだな」  図星を突かれた神子都は鎖々那からそっぽ向いて唇を尖らせる。そんな神子都を初めて見た鎖々那はクスッ、と笑ってしまう。  「とは言っても、巫女たちに話を聞いてみなければ今日中に台所を使っていいものかわからないからな。後で千菊に聞いてみるといい」  「本当ですか? 私、千菊さんは話し掛けやすい人だなぁって思っていたんです」  「千菊と会って神子都殿は話し方が軽くなった」  途端、神子都は足を止めた。鎖々那は後ろで突っ立つ神子都に振り向く。  「私、そ、そんなに畏まってましたか?」  「ああ。狐しかいない神社と思って、不安だっただろうか?」  「正直に言うと……そういう気持ちはありました。ごめんなさい」  胸元に手を当てて顔を背けた神子都は暗い表情で深い息を吐いた。  「なに、謝る必要は無い。少し安心したんだ。神子都殿は此処に来てからずっと肩に力を入れていたからな」  顔を上げた神子都は目を(みは)る。鎖々那たちの事を知っていこうと力む自分を見透かされているような気がしたからだ。  母屋に戻った鎖々那が次に向かったのは、夫婦である神子都と使う寝床だった。寝床とその隣にある神子都が使う座敷が襖で仕切られていた。  「神子都殿、こっちに来てくれるか?」  「何でしょう?」  鎖々那は襖の前に神子都を手招いた。  「開けてくれるか?」  静かに開けた襖の先には、鳥居のような形をした衣桁(いこう)に、鮮やかな色留袖(いろとめそで)が掛けられていた。緋色の絹地に(えが)かれた白い流水紋と、その上に散りばめられた桜模様。  地位の高い者しか身に付けないような留袖に目を奪われた神子都は思わず呟いた。  「綺麗……」  「神子都殿に似合うだろうと思って、城下で手に入れたんだ」  「…………ええ!?」  ぽかんとした表情をから少し間を空けて仰天する神子都に軽く吹いた鎖々那は『鈍い』という言葉が頭に浮かんだ。  「お気持ちは嬉しいですけど、贅沢品を地味な私が着るなんて勿体無いじゃないですか!」  「それ、自分で言っておきながら悲しくないか?」  「はい……」  自分の容姿に自信が無い神子都は自分自身を悲観する事が度々あるが、悲観した事を鎖々那に改めさせられ肩を落とした。  「! もしかして――」  と、不意に神子都は昨日の事を思い出す。  祝言を挙げた時に酒の飲み過ぎで翌日には二日酔いになった神子都を朝から付き添っていた鎖々那であったが、昼間に『少しの間、出掛けて来る』と伝えて稲荷神社を留守にした。その後に、神子都は見知らぬ“女の人”に襲われたのだが。  「昨日、出掛けたのは、これを買いに……?」  「覚えていたのか。いつ見せようか、ずっと考えていたんだ。言っただろ? 神子都殿に見てほしいものがあると」  隣で微笑む鎖々那に神子都の鼓動が脈打つ。  (お狐さまに触れたい……)  神子都の視界には、一人の男が映っている。  少し癖毛のある短髪は紅く、翡翠色の瞳。髪色と同じ色の頭に生えた三角の獣のような耳。  見惚れてしまう程の整った顔立ちは役者のようで“人”そのものだ。  「俺が神子都殿に案内している内に用意しておいてくれと、巫女たちに頼んで……神子都殿?」  話していた鎖々那に寄り添う神子都は、薄墨色の羽織の袖を掴んだ。  「どうした?」  俯く神子都の顔が見えない鎖々那は少しだけ首を傾げて窺う。  「嬉しくて……こんな私が、神様である貴方の妻であって良いのか、本当はまだ不安で……」  嬉しさから涙を零す神子都の頰に、鎖々那が優しく手を添えた。  「神子都殿でなくては意味が無い。着物を受け取ってくれるか?」  「……はいっ」  涙を流し、微笑む神子都に鎖々那は口付けした。  そのまま口付けを受け入れ、相手を確かめるように目を閉じた。  鎖々那は神子都の細い肩を抱き、身体を引き寄せて口付ける角度を何度も変える。  啄むような熱い口付けを受ける神子都は息が詰まりそうになるのを耐えて鎖々那の鴇色の着流を掴んだ。  唇が離れると二人は見詰め合う。翡翠色の瞳に映る神子都は顔を真っ赤にして涙目になっていた。  「愛らしい神子都殿に我慢出来なくなった」  「そ、そういう事を平然と言わないで下さい。私、初めて……なんです……から……」  声が徐々に小さくなる神子都は俯いて口籠る。  「“初めて”なら手取り足取り教える甲斐があるな」  (うぶ)な神子都には刺激が強い発言で、神子都はビクッと肩を揺らした。  「ははっ。冗談だよ」という鎖々那は神子都の反応を面白がってにこにこと笑っている。  (未経験な自分が恥ずかしい!)  胸が熱くなるにつれてどくりどくりと鼓動が早くなる。神子都はギュッと固く目を瞑って、俯いた自分の顔を両手で隠した。そうしている内に鎖々那に肩を抱き寄せられて、互いの身体が密着した。  「そうだなぁ、花見頃や正月祝いの時に着て欲しいものだ」  「お花見……?」  火照った顔を上げて、肩を抱く鎖々那を見上げる。  色留袖を眺める鎖々那は神子都に話す。  「もう時期が過ぎてしまったが、狐たちを誘って山で咲く桜を見に行く事があってだな、今年は威縄(いなわ)が風邪を引いてしまい花見は出来なくて……だな……」  明るい話しをしていた鎖々那は威縄の事を口にした途端、暗い表情に変わって行く。頭に生えている三角の耳が真っ直ぐ立っていたのが力無く垂れ下がった。  朝餉の時に枷宮羅(かぐら)と言い争いになった威縄に対し、鎖々那が言い争う原因は威縄にもあると話せば、威縄本人から罵声を浴びせられたのだ。  弟のように可愛がって来た威縄に心を傷付けられた鎖々那は酷く落ち込み、それ以降、威縄と顔を合わせていない。  「だ、大丈夫ですか?」  「気にしないようにはしていたのだが……思い出した途端に今朝起きた事を後悔してしまった……」  肩を落とす鎖々那は神子都を抱き寄せていた腕を離し、額に手を当てて深く考え込む。  「威縄くんに会いに行きますか? 何だったら私も一緒に行きます」  首を左右に振った鎖々那は深刻な顔をして口を開いた。  「……その前に、まだ神子都殿に話しておかなければならない事があるんだ。昨日、神子都殿を襲った“女”の事を」  神子都は目を見開く。自分を襲った相手がずっと気掛かりでいたのだ。しかし嫁いだばかりという訳から神子都から聞く訳にも行かないでいた。  鎖々那は神子都の左の頰に貼られた油紙に触れた。  「あの“女の人”が何者なのか聞かせて下さい。私は知りたいです」  曇りない眼で神子都は鎖々那を見詰め、頰に添えられた手に自分の手を重ねた。
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