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鎖々那は神子都を襲った“女狐”の事を話した。
話は鎖々那の幼少期まで遡り、鎖々那の親代わりだったという前代“狐神”の花嫁が“女狐”の手によって命を落とした事が明らかになった。
“狐神”の正妻になったばかりの神子都に恐怖を植え付けてしまうかもしれない。
だが、神子都は鎖々那を信じて恐怖から逃げないと決意を固めた。
「――そうとなれば、今日の夕餉は私が作ります! 台所の使用は千菊さんに言えばいいでしょうか?」
「ああ。千菊なら話しを聞き入れてくれるさ。神子都殿が何を作るか楽しみだな」
目を細め、暖かい日差しのような笑みに神子都の心臓がどきりと跳ねた。
「そ、そんなに期待されると、美味しいものがちゃんと作れるかどうか……」
(あ、あれ? さっきまでお狐さまと向き合ってお話出来たのに、急に恥ずかしくなっちゃった。どうしよう……)
突然と神子都の初な乙女心が戻って来てしまった。
「そういう顔をされると、こちらも手を出さずにはいられなくなる」
頰を赤く染めた神子都の輪郭に添えた左手を滑らせて顎を掬う。
「おっ、お狐さま!?」
視線が合う相手の行動に胸の鼓動が加速する。
鎖々那の整った顔が近付き、神子都はぎゅっと目を瞑った。
しかし、予想は外れて怪我をしている左の頰に貼られた油紙の上に唇が軽く触れたものだった。
顎に添えられていた手が離れ、閉じていた瞼を開ければ眼前に居る鎖々那が満足気に微笑んでいる。
「意地悪……」
口籠もりながら話す神子都の顔は真っ赤に染まっている。
「足りなかったか?」
「だっ、大丈夫です!」
恥ずかしがっては慌てる神子都の反応に「はははっ」と、笑い声を出す鎖々那は実に楽しそうだ。
神子都は機嫌を損ねて鎖々那から、ぷいっと顔を逸らした。
「これはすまない事をした。茶菓子でも食べて気分を変えようではないか」
『茶菓子』という言葉に神子都は黙ってしまった。
(茶菓子…………凄く食べたい……!)
神子都は態度を一変して食べたい欲求から目が自然と輝き、ごくりと喉を上下に動かす。
鎖々那は居間に行き、隅に置かれてある茶箪笥の前に腰を下ろす。
「あ、あの、それなら、お茶を淹れて来ますねっ」
後ろに居る神子都に振り向いた鎖々那は凝視した。
「そんなに食べたいか?」
「勿論です!」
胸を弾ませる神子都は急ぎ足で居間を抜けて台所に向かった。
茶菓子一つで子供のような好奇心を見せる神子都にふと考えた。
(あれも実家に居た頃には出来なかった感情なのだろうか?)
神子都が幼き頃に自分の身に起きた出来事を聞いて鎖々那は今の考えに至る。
(そうだとしたら、神子都殿の好きなようにさせておこうか)
神子都の笑顔を思い出す鎖々那は、ふっ、と笑みが零れた。
庭に面した表座敷に移動した鎖々那と神子都。二人で縁側に並んで腰を下ろしていた。
「こちらで良いのですか?」
「外の空気を感じて食べた方が良いと思ってな」
鎖々那の隣に正座する神子都は置いてあった茶菓子に目が行く。
片木盆に紙を敷いた上に金平糖が幾つか乗っていて、その傍に饅頭とは少し違った菓子が小皿に置いてある。
「金平糖と……これは?」
緑色の粉がかかった楕円形の菓子に神子都は興味深く見ては首を傾げた。
「これは鶯餅と言って、餡を包んだ求肥の上に、大豆を粉にしたきな粉がまぶしてあるんだ。早春に作られる菓子であるのだが、時期を過ぎても作っている菓子屋があってね」
「この丸みを帯びた形……確かに鶯に見えますね」
「途中から話を聞いてないね」
目線の高さまで小皿を持ち上げる神子都は話の内容より鶯餅に興味津々である。
手拭いを巻いた右手で菓子切りを使い、鶯餅を割いた鎖々那の動作に神子都は目を向けた。
一口入る大きさに切り分けた鶯餅を、菓子切りに刺して食べる鎖々那の姿は婉美で見惚れてしまう。
顔に集まる熱を感じつつ神子都は自分が食べる分の鶯餅に視線を戻した。
菓子切りを使った事が無い神子都は見様見真似で鶯餅を割いた。一口食べると、口の中で広がるきな粉の香りと大豆の甘味、そこに少し塩気もあって次に来る餡の甘味と上手く絡み合う。
「おいひい!」
「それは良かった」
表情を緩ませて幸せそうに食べる神子都の姿に鎖々那は目を細めた。
「こんな贅沢な暮らしをしてしまったら、いつか罰が当たりそう……」
鶯餅を食べては顔を綻ばせ、食べ終えれば肩を落とす神子都は貧乏性を見せた。
「菓子一つ食べたぐらいで天罰を下す神は居ないよ」
「私、菓子と言えば饅頭ぐらいしか食べた事が無かったので、つい……。考えが大袈裟ですね。あ! そうだ!」
苦笑しつつ自嘲したかと思えば、何かを思い出したように突然と声を上げて、嬉しそうに隣に座る鎖々那に振り向いた。
「さっき台所で千菊さんに会って夕餉の事を話したんです」
「それで、どうだった?」
「使って良いと仰ってくれました。後、お狐さまの分だけでなく枷宮羅さま、それから――」と、神子都は指折り数える。
「威縄くんと斬実さんの分も作る事になりました」
眉尻を下げて困る様子を見せた神子都であるが何処か嬉しそうで、千菊の考えを推測する鎖々那は口元は笑っていても何とも言えない表情になる。
(自分の仕事を神子都殿に投げたのだろうな……)
日頃から鎖々那たちの食事を作るのが稲荷神社に居る巫女の役目である。
神子都が夕餉を作るのを良いように利用した千菊は、他の巫女たちと共に“自分たちの分だけ”夕餉を作る事にしたのだ。
鎖々那たちの食事を作り、自分たちの食事も作る同時作業は巫女たちにとっては意外と大変な仕事なのである。
「何も枷宮羅たちの夕餉まで作らなくてもいいと思うが……」
「千菊さんに『折角、夕餉を振る舞うのなら、ここは“狐神”さまに仕える枷宮羅さまたちにも』と、仰って頂いたので遠慮なく作ってみせます!」
右手に拳を作り、気合いを入れて張り切る神子都に対して鎖々那の内心は複雑だ。
(神子都殿は良いように乗せられたのか。本人がやる気だから止めはしないが……何だかなぁ)
「――鎖々那さま」
睦まじげに会話をしていれば鎖々那は名前を呼ばれた。
廊下から鎖々那の方へ向かって歩いて来る男の姿。男は藍色が混ざった黒髪に、頭に三角の獣のような耳を生やし、黒い小袖に山袴と足首には脚袢を巻き付けている。
「斬実、どうした?」
鎖々那に問われたその男……斬実は鎖々那の隣に回り込み、屈んで小声で話す。
その光景を傍観していた神子都は鶯餅が残ってある小皿を縁側に置いた。
「あの、大事な話しなら席を外しましょうか?」
気遣う神子都の前に手を出して、小さく首を左右に振った鎖々那は座っていた体勢から立ち上がる。
「少しの間、斬実と話して来る」
「はい。わかりました」
微笑む神子都につられて鎖々那も微笑んだ。
座っていた腰を上げて、場所を変える為に歩き出した鎖々那の後に続く斬実は、神子都と目が合うと軽く頭を下げてその場を後にした。
二人の背中を見送り、見えなくなったところで神子都は菓子切りに刺した鶯餅の残りを食べた。
(斬実さんはどうしていつも無表情なのだろう?)
頭を軽く下げた斬実は無表情だった。
(此処に来て、まだまだ知らない事ばかりだ)
神子都は片木盆に乗った白い金平糖を一粒摘んでは口に入れた。
「ん、美味しい」
舌で転がる砂糖の甘味に思わず表情が緩む。
「うわっ……一人でニヤニヤして気持ち悪い」
「威縄くん!?」
声に驚き庭に目を向けると、藍鼠色の小袖に茶色の袴の格好で、灰色の短髪に獣のような耳を頭に生やした少年が腕を組みながら立っていた。
少年……威縄は眉間に皺を寄せて不機嫌な顔付きで神子都を伺った。
「どうしたの?」
「鎖々那の……様子見に来ただけ……」
小声で話す威縄の声が上手く聞き取れなかった神子都は首を傾げた。
「え?」
「な、何でもない!」
動揺する威縄は踵を返した。
「威縄くん、待って!」
神子都は立ち上がり素足で庭に出る。
「付いて来ないでくれる?」
歩く足を止める事も神子都に振り向く事もなく先へ進む。そんな威縄の後ろに付いて歩く神子都。
「あ、あのね! 今日の夕餉、私が作る事になったの!」
「それは良かったね」
「だから威縄くんに食べてほしいなと思って」
「ああそう!」
いきなり足を止めた威縄は自分の背後に立ち止まる神子都に振り向いた。
「こっちはあんたの料理なんか期待して無いから。不味いものを作らないよう精々頑張る事だね」
嫌味を言う威縄は人を見下すように嘲笑う。そんな威縄を前に神子都は目を丸くさせる――と。
「うん! 頑張るね!」
満面の笑みで元気良く張り切る神子都。威縄から受けた発言を『嫌味』ではなく『応援』と受け取ったのだ。
目の前で嬉しそうにする神子都の姿に威縄の表情が曇る。
「……チッ!」
「何で!?」
威縄の強い舌打ちに神子都は訝る。威縄は神子都に背を向けてまた歩き出した。
(威縄くんにはお狐さまと寄りを戻してほしい。余計な事かもしれないけれど、それでも私は――)
鎖々那の心には威縄の事を想う気持ちがある。そんな夫の気持ちを汲む神子都は、自分が素足で外を歩いている事を忘れて、ぐっと息を呑んだ。
その時、威縄が駆け走り逃げ出した。
「!? 威縄くん待って!」
「な!? 付いて来るなよ!」
稲荷神社の敷地内にて新妻になったばかりの娘と神様に仕える灰色の小狐の鬼ごっこが始まった。
* * *
神子都とお茶をしていた鎖々那を訪ねた斬実は小声で用件を伝え、その用件を話すべく母屋から離れ家に場所を変えた。
二人は斬実の自室に移動し、正座をする鎖々那の前に斬実は腰を下ろしてその表情の無い顔で眼前を見据える。
「先程、近くの裏山にて神子都さまを襲った“女狐”の姿を見受けられました」
「そうか。また奇襲を仕掛けて来そうか?」
「そのような動きは見せなかったのですが、稲荷神社の近辺に姿を見せたという事は神子都さまの身が危ういかと」
一切の瞬きをせずに斬実は話す。
黙考する鎖々那は顎に手を添え、それから口を開いた。
「斬実、暫くの間“女狐”の行動を監視してほしい。神子都殿の命を狙い、この神社を穢すような動きを見せた場合は、瞬時に知らせてくれ」
「承知」
「それから」
話しを付け足した鎖々那は、面を上げた斬実を神妙な顔立ちで窺う。
「無理はするな。お前の身が危険に晒された時は任務を放棄し、己の命を守り抜け。いいな?」
その言葉に斬実は一瞬だけ目を剥き、頭を下げる。
「……俺の命は、鎖々那さまの為にある」
呟いた声はあまりにも小さく、聞き取れなかった鎖々那は小首を傾げて斬実を窺う。
「――失礼する」
と、閉ざされていた襖の向こうから声が掛かった。
その男の声は聞き覚えのある声で、座っていた姿勢から立ち上がる斬実が襖を開けると、其処には黒い髪を総髪に結い上げ、猟師を連想させるような格好をした久津束が正座をして待っていた。
久津束の姿に鎖々那は思わず笑みが零れる。
「久津束、戻って来ていたのか」
穏やかに話す鎖々那に応えるべく軽く頭を下げた久津束は、部屋に入っては直ぐ腰を下ろし、襖を閉めた斬実は座っていた元の位置に戻る。
「婚礼以来です。部屋の前を通りかかった際、二人の話しが聞こえて来たので聞き入ってしまい、話しの内容に居ても立っても居られなくなり声を掛けたという次第であります」
「そう畏まらなくても良いのだが」
「そうは行きません。早速と本題に入るのですが……此処に来る途中、威縄から聞いた話しですが、奥方殿が“女狐”に襲われたというのは本当ですか?」
真相を確かめる久津束。鎖々那から穏やかな雰囲気が消え去り、表情は冷たいものへと変わった。
「“狐神”の花嫁という理由だけで“女狐”は神子都殿の“生き肝”を狙いに来た」
鎖々那の脳裏に親代わりだった前代“狐神”の花嫁が亡くなる光景が浮かんでいる。
「鎖々那、“女狐”の監視は俺にも協力させてくれないか? 戦力は多い方がいいだろう」
「わかった。斬実は近辺の裏山と他の狐たちが住まう山にも注意し、久津束は稲荷神社と周辺の地域を任せる」
「は!」
声を揃えた斬実と久津束は鎖々那に向けて深々と頭を下げた。
久津束と鎖々那の二人が自室から出るのを斬実が襖の傍で待っていれば、ふと鎖々那の手元に目が行く。
「鎖々那さま」
「何だ?」
「気になっていたのですが、その手は如何されたのです?」
鎖々那の右手には手拭いが巻かれていて、斬実は鎖々那と顔を合わせた時からずっと気に掛けていたのだ。
「少し手の平を切ってしまってな。神子都殿が――」
と、右手を見詰めて目を細める鎖々那の表情は側から見ても相手を想っている眼差しだった。
「神子都殿が手当てをしてくれたから大事無いさ」
「そういう事でしたか」
「斬実は相変わらず鎖々那の身を案じているのだな」
微笑ましく言う久津束に何一つ表情を変えない斬実ではあるが、何も言わずに視線を逸らした。
「鎖々那も奥方殿と上手くやって行けているようでなによりだ」
「神子都殿は良き妻だよ。それに、俺の隣に“あの人”が居た時みたいで愛しく思う」
穏やかで優しく微笑む鎖々那を前に久津束は目を見張った。
(鎖々那……お前にとって奥方殿は――)
久津束は神子都の存在を思うと、そこから自分が此処に来た、本来の目的を思い出した。
「あの、鎖々那……折り入って話しがあるのだが……」
顔を蒼白にして額に手を当てる久津束に驚く鎖々那。
「急にどうした?」
「その、兄上が……」
「お前の兄と言えば、拘弦か」と、斬実は顎に手を当てて思い出す。
拘弦が“くだらない理由”から此処に来る事を話そうとしたが、話す事を辞めた。
(奥方殿と情を交わしたい理由から此処に向かっているなんて、夫婦になったばかりの鎖々那に言うのもな……)
「……兄上が、近々こちらに来るかと」
顔を上げた久津束は苦笑して鎖々那を見た。
「そうか。しかし、俺はもう何年と会っていないからどうしたらいいか」
「兄上の事は俺が何とかするから、鎖々那は普段通りに過ごしてくれ」
とは言うものの頭を垂れてうなだれる久津束の様子に鎖々那は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
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