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 つめが割れている、と匡孝は思った。右足の親指のつめが伸びすぎて欠けている… 「落とし物か?」  その声にはっとして匡孝は顔を上げた。  市倉の顔が逆光の中にぼんやりと浮かんでいる。  匡孝は声を失くした。 「え…な──」  なんで。  なんでここにいるのか。  なんで?  だって、りいが今、  今そこにいたのに── 「──」  それって、つまり。  つまり、… 「なんで…先生」  市倉が怪訝に眉をしかめる。 「なんで?」 「なんでここにいんの…」 「はあ?」  市倉はなぜか一瞬言葉を詰まらせたが、匡孝は気付かなかった。見上げた顔は薄暗くてよく見えなくて、思わず縋るみたいに市倉のスウェットの腕を掴んだ。ことん、と足元に何かが落ちた音がした。市倉の視線がそれに向く。 「おいなんか落ちた…」  先生、と匡孝はそれを拾う市倉に言った。  どうしてこの人は、いつも──  いつも、突然に、そこにいるのだろう。  どうして。 「ケーキ?なにおまえ…」拾い上げたケーキの箱を掲げた市倉が匡孝を見て、ぎょっとしたような顔をした。 「おいおい…どうした?」  見開いた匡孝の目からぽたぽたと涙が落ちていく。覗き込んだ市倉の困惑した顔に、匡孝は安堵してしまって、腕を握りしめる手も、涙も、どうしようもなく止められなくなった。          *  遅く咲いた桜の花ももう終ろうとしていた。  名残のように残った花弁が葉の間から思い出したように降ってくる。  その声に匡孝は校門を入ってすぐのところで振り返った。 「ちょっと聞きたいんだけど」  匡孝は覚えている。  その声を、その姿を。  春は終わる。  すでに季節は移ろう気配を見せていた。  ぬるく暖かな風が散った花びらを舞い上げていた。  泣いた後の腫れたような高揚感が匡孝を包んでいた。  ふいに思い出した記憶に気を取られていると、市倉が戻ってきた。 「おまえはいそがしいな…」  呆れたように言って差し出されたコーヒーを匡孝は受け取った。コンビニの紙コップに入ったコーヒーだ。なにが、と匡孝はそっぽを向いたまま口をつけて眉をしかめる。「あっま…」  市倉は当然とばかりに目を見開いてみせた。 「この時間にコーヒー飲むと寝れなくなるぞ」 「砂糖入れた?…」 「カフェオレだからな」昼間飲んでたくせにと返されて、匡孝は反論する。 「甘いのがやなの!」 「まあいいだろ」  市倉はふー、と紫煙を吐き出した。コンビニの外壁に寄りかかり、気だるげにする仕草は妙に様になっていて視線を持っていかれそうになる。なるべく目を向けないよう意識して、匡孝は隣で同じように壁に寄りかかり、甘いカフェオレを飲んだ。市倉によって砂糖がかなり投入されていて、どんだけ子供扱いだと面白くない。 「薄給から奢られといて文句言うなよ…」喉奥で笑いながら市倉は言った。目元に髪が覆いかぶさっていてその隙間から匡孝を見下ろしている。 「どーも…」  ん?と市倉が聞こえないと耳を傾けてくる。わざとか。 「アリガトお」 「どーいたしまして」  心の込もらないお礼を述べたらそれ以上に返事はそっけなかった。会話は途切れてしまい、ふたりは暫く煙草と飲み物にそれぞれ集中する。  出入りも少なくなった住宅街のコンビニの外で、何をしているんだろうか…  手の中の温かさが体中に回っていく気がした。  引き攣ったように固まったものはやがてほどけていく。  時折思い出したように人が来ては去っていく。目の前の道路を車が一台通過し、3台の自転車が行き交った。それきり、静かだ。コンビニの中から漏れてくるかすかな有線の曲が、漂っている。そればかりで何もない真っ暗な夜だ。  匡孝はちらりと横を見た。市倉の黒いスウェットが暗がりと同じ色をしている。 「先生さあ…寒くないの」  今日も上着はなしだ。  すん、と市倉が鼻を鳴らした。 「さみーよ」  ですよね。匡孝は甘いカフェオレを飲んだ。 「もう、帰れば…」 「ああ」そう頷く市倉の足元にはビール缶が入ったビニール袋が置かれたままだ。飲めばいいのにと思ったが、この寒空の中で冷たいものを飲む気にはならないよな、と匡孝は思いなおす。当然暖かい家の中で飲むつもりで買ったのに違いない。  そこでふと匡孝は考えてしまう。今夜、もしかして市倉はりいを自宅に呼んでいたのだろうか。市倉がりいと入れ違いに出てきてしまい、連絡がつかないとりいが怒って帰ってしまった?  あれはそういうことだった?  どく、と胸に痛みが走った。 「誰か、待ってんじゃないの…?」 「誰?」  目を見開いて市倉は逆に匡孝に聞いた。 「いや……誰か?」 「なんだそれ」  ふう、とため息のように市倉は匡孝の反対側に煙を吐き出した。 「おまえさ」一呼吸おいて匡孝を見る。「なんで泣いたの?」  う、と匡孝はむせそうになる。不意打ちだ。隣から腰を折るようにして顔を覗き込んできた市倉とばっちり目が合ってしまい、かあ、と体温が上がった。 「いやちょっとっ…」 「ちょっと?」 「いやいやいや…」今まで聞かなかったのは落ち着くのを待ってから不意打ちするためか。斜めに傾いだ市倉の顔をぐいっと押しやって匡孝は紙コップで顔を隠した。 「なん、なんでもないです…、なんでも」 「あれだけ盛大に泣いておいてなにもないはないな?」  市倉はじっと匡孝の目を見た。 「俺がコンビニにいて悲しいのか」 「いや違うし!」  どんな理由だ。いやむしろ嬉しいし。 「違うって?」 「違う違う違う…そんな理由では」 「そんな理由では?」 「えっ、えええええ…と」  言えるかそんな理由。ますます顔を押し付けられるように覗き込まれて、匡孝はもう勘弁してほしいと思った。なんか、なんかいつもと違う。  距離が。  近すぎて──  形勢が逆転してはいまいか。 「ええと、ほんとに、なんでもないから」  無理やりに作った笑い顔を市倉に向けると、仕方なさそうに市倉は身を起こした。横顔が憮然としているように見えるのは気のせいだろう。ほっと息をつき姿勢を正した匡孝のつま先がこつ、と置いていたケーキ箱をかすめた。 「あ」  そういえば派手に落としてしまったのだと、今さらのように慌ててしゃがみ込んで中を開いてみる。少し形の崩れたケーキがふたつとも端に寄っていた。よかった、そんなに崩れてない。 「無事だったか?」  しゃがんだ匡孝の上から市倉が覗き込んでくる。匡孝はうん、と頷いて箱の中身が見えるように市倉に開いた箱を差し出した。「ちょっと崩れただけだった」  覗き込む市倉に匡孝は言った。 「余ったからって貰ったんだ。でも、俺今ひとりだし…」と匡孝が言いよどむと、市倉がくいっと指で箱を自分のほうに向けた。 「ふうん」  そう言って市倉は手を突っ込んで崩れたケーキをひとつ掴みだし、そのままがぶりと食べた。 「あーっ!」  なんで⁉  ぱくぱくとほんの二口ほどで手の中からケーキは消えた。旨いな、と言いながら指についたクリームの欠片をぺろりと舐めとって、市倉は何事もなかったかのように煙草を吸った。 「おまえも食えよ」 「はあ⁉」 「コーヒー買ってきてやるから」 「は⁉」 「俺が飲みたいから付き合え」  ギュッと外置きの灰皿に煙草を押し付けて市倉はズボンのポケットから小銭を取り出した。 「どうせひとりなんだろ?」  言い置いて匡孝のカフェオレを取り上げそばのゴミ箱に捨てると、再びコンビニの中に市倉は入っていった。  匡孝の心臓がとくとく、と早くなっていた。  レジでコーヒーを買う市倉とふとガラス越しに目が合う。  それは穏やかに笑っていて、思い出した記憶と重なっていく。  もしかして、──寂しさを気付かれていたのだろうかと、そう匡孝は思った。
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