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 もう上がっていいぞ、という浜村にこれだけ、と匡孝は残った洗い物を全部食洗機に入れてスイッチを押した。市倉が外で待っているかと思うと落ち着かない。浜村が中でどうぞと言ったのだが、煙草が吸いたいからと市倉は外にいることを選んだのだ。 「でもあの人学校の先生だったんだなあ…たまに来てるの覚えてるよ」  見たことある、と鍋を洗いながら浜村が付け加える。確かに市倉は匡孝が初めてこの店を訪れた時、ここに来ていた。 「最近?」  たまに、という言葉に、なんとなく匡孝は尋ねた。うーんと浜村は考えて、匡孝を見た。 「先月」 「先月?」 「多分な。大体月1ってとこかな」  匡孝は首を傾げた。自分には覚えがない…というか、匡孝がいる時に市倉がこの店を訪れたのは今日が初めてだったのだ。ではいつも、浜村の言う月1回の来店は匡孝がいない時だったのだろうか?  ひとりで? 「──」  思いついたことに匡孝は後悔した。うわ、と頭に浮かんだ考えを打ち消そうとどうでもいい事を口走る。 「あー、店長、遅いね…」  いつもならとっくに姿を見せている頃だ。ね、と匡孝が浜村に同意を促すと浜村がふっと笑った。そして、意味ありげに匡孝を見る。 「な、なに?」 「いや?」  にやついた口元を隠すように浜村はそっぽを向いて何でもない、と匡孝に言った。                *  店の外壁に寄りかかり、市倉は深く煙草の煙を吸い込んだ。肺が満たされて、味わってから、それをゆっくりと吐き出していく。  店の前庭に匡孝の自転車は見当たらなかった。きっと裏にでも置いてあるのだろうと市倉はさほど気にもせず、黙々と煙草をふかした。待つことには慣れている。元々体温が高く寒さもあまり感じない体質だ。空を見上げるとよく晴れていて雲ひとつない星空だった。月がなく、今日は新月か、もしくはもう見えない場所まで移動してしまったか…  見えなくても──それでも、そこにあると知っていたら。  存在は消しきれないものだ。  なかったことにするのは難しい。  考えに深く沈んだ市倉は、そのとき足音が近づいて来るのに気付けなかった。  間近で息をのむ声に意識が浮上した。  人の気配に目を向けると、前庭の中に人影があった。はっとして目を凝らすと、相手もぎょっとした顔をしてこちらを見ていた。線の細い──男だ。グレーのコート姿、眼鏡が明かりを残した店内の光に淡く照らされている。 「だ──だれ」  問う声が神経質に尖る。明らかに不審がられている。自分の見た目を思えば──まあ当然か、と市倉は思った。 「人を、待っているんだけど」  市倉は努めて優しい声を出した。怯えられて騒がれるのは困る。男は探るように市倉を凝視した。切れ長の目、青白い肌、歳は…同じくらいか?眼鏡がずり落ちそうだ。だが彼は両手それぞれにパンパンに膨らんだ買い物袋を提げていて、直すことが出来そうにない。市倉はそれを直してやりたい衝動に駆られた。  まあ、無理だな。 「…ひと?」  ふと、市倉は思い当たった。 「ここのバイトが知り合いなので…もしかしてこちらの方ですか」 「江藤君…?」  男ははっとした顔でそれだけ呟くと、ダッと走り出し、前庭を突っ切って店の裏側へと消えた。  市倉はしばらくその方向を眺めていたが、やがてまた煙草を咥え深く吸い込んだ。  微妙に噛み合わない会話だったな、と思い返していた。                * 「じゃあお先に、浜さんお疲れ様でしたー」  おう、と浜村が返した。 「先生によろしくな」 「はーい」  厨房からバックヤードへの扉に手をかけたが、一瞬早くそれが反対側から開いた。 「──えとうくんっ!」  大沢が大声で叫んで飛び込んできた。うわっ、と仰け反った匡孝がたたらを踏みそうになったのを、大沢が腕を掴んで引き戻した。 「表に…っ」  目が合って、初めて匡孝は大沢の息がひどく上がっていることに気が付いた。そういえば珍しくコートを着ている。しっかりとした厚手のグレーのダッフルコート、どこかに出掛けていたのか。顔が青ざめている。暖かそうなコートなのに。 「外に──いるのは、…君の知り合いか?」  市倉の事だ。匡孝はこくりと頷いた。 「がっ、こうの…先生、です」 「先生?」  こくこくと匡孝は頷いた。 「本当に?」  大沢の目が匡孝の目の中を探るように見つめてくる。 「ほ、本当…」さらにこくこくと頷いた。  一瞬の間の後、大沢はほっと肩で息をついた。そうか、と呟く。 「今日ずっと、君の携帯が鳴っていたから、てっきり…」 「あ、──」  そこで匡孝は自分の携帯の電源を切っておかなかった事に気付いた。ロッカーに放り込んだままのそれが、1日中鳴りっぱなしだったのだろう。匡孝は内心でため息をついた。それについては心当たりがあったからだ。  大沢は心配してくれていたのだ。市倉を、ストーカーか何かと勘違いをして。まさか自分に限ってそんなことはあり得ないが──大沢にそれを知る由はない。  成り行きを見ていた浜村がふっと笑った。 「浜さん、笑い事じゃない!」  大沢が睨みつける。それを面白そうに見て、浜村が言った。 「あのな?さっき食事しに来てくれて、そのまま江藤の上りを待ってんだよ。煙草吸うからって表にいるの。それにあの人はウチの常連さんだよ」 「ああ…そう」  浜村の説明を聞いて、大沢の体から力が抜けていき、匡孝の腕を掴んでいた手が離れた。それを見ていた匡孝と目が合ったが、大沢はふいっと顔を背け、匡孝の側をすり抜けた。 「じゃあ…お疲れ様、気をつけて」  すり抜けざまに言われた言葉はいつものようにそっけなかった。が、その耳は真っ赤になっていた。匡孝はそれが何故かひどく嬉しいと思ってしまった。 「また明日な」  厨房の端と端、にやにや笑っている浜村と目を合わせ、匡孝も笑う。お疲れ様でした、と見えない場所にいる大沢に声を掛けた。               *  表に回ると市倉は壁にもたれて煙草を吸っていた。足音に気付いたのか、顔がゆっくりとこちらを向いた。その口元から白い息と煙が、同時に空気の中に溶けていった。 「終わったか?」 「…うん、お待たせ」 「お疲れさん」  市倉は手の中の携帯灰皿にギュッと煙草を押しつけて消した。それをポケットにねじ込んで、匡孝がそばに来るのを待ち、歩き出した。 「自転車は?」 「歩き。最近はずっとそうだよ」  並んで歩く肩の位置は、市倉の方がずっと高い。あの日侑里は匡孝を背が高いと言ったが、自分は普通だと匡孝は思った。175まではない。いたって標準だ。それでも女の子にしてみれば高い方に入るのだろうか。 「土日も、明日も入んだろ?」  高校へは徒歩通学なので、学校帰りではない土日は自転車だろうと市倉は暗に言っているのだった。 「そうだよ、明日も。ウンド―兼ねて、歩いてんの」 「危ねえから自転車使え」  匡孝は笑った。 「大丈夫だって」  先ほどの大沢を思い出す。 「みんな心配しすぎだよ」  市倉が匡孝を見下ろした。「…みんなって?」 「うちの店長。さっきせんせーが表で会った人」  あー、と市倉が天を仰いだ。心なしか瞼が半開きになっている。「あの人な…」あれで店長ね…との呟きが聞こえたような気がしたが、匡孝は聞こえないふりをした。 「ちょっと変わってるけどいい人だよ?でもさー、先生の事ストーカーか何かと勘違いしてた」 「はあ⁉」  市倉がぎょっとした顔で匡孝を振り向いた。 「ちゃんと訂正したって」匡孝は笑いながら言った。 「頼むわ…もう行けなくなるだろ」  ため息を吐きながら市倉は髪をかき上げた。その姿に匡孝の胸の奥がざわめいた。もう行けなくなる。もう…  そこに誰がいるのだろう。 「先生、うちによく来てるって?浜さんが覚えてたよ」  ああ、と市倉は言った。「時々な」 「──ふうん」喉元まで出かかった言葉を匡孝は飲み込んだ。どうしてそんなことばかり気になるのか。なんだか自分が嫌になりそうだ。  でも。 「…俺がいない時に?」  俯いてしまった匡孝に市倉はふっと笑みを零した。 「そうだよ」 「いる時に、来てよ」  ぽつりと匡孝は呟いた。  ポケットに突っ込まれた市倉の両手をじっと匡孝は見る。あと少し、あと少しの距離。ほんの少しなのに、かすめては離れていく存在だ。そうして脳裏によぎるのは、あの日りいと食事をしていた市倉の姿だ。 「俺がいる時に来てよ」  見上げると市倉が目を丸くして匡孝を見ていた。目が合うと、それがふっと柔らかく笑んだ。 「おまえがコーヒー淹れるの?」  匡孝の足が止まる。 「い──淹れるっ…」 「じゃあ今度からそうする」  今度は匡孝の目が丸くなった。 「俺で練習しろよ」 「うん…っ」  変な奴、と市倉が笑った。気が付くとそこはもう十字路のすぐそばだった。匡孝はじゃあ、と言おうとしたが、市倉はそのまま十字路を通り過ぎ先へと進んでいく。ビーチサンダルのペタペタとした足音が匡孝の先を歩いていく。 「どうした?」  淡い逆光の中で市倉が振り返った。通り過ぎたと匡孝は言おうとして、思い直し、首を振った。 「なんでもない…」  当たり前のように市倉は自分を送り届ける気なのだと匡孝は思った。  小さく走って市倉に追いつく。  再び肩が並ぶと市倉はゆっくりと歩き出した。匡孝は自分の体温がふわっと上がっていくのを感じた。 「こないだは悪かったな」 「え?」  市倉は匡孝を覗き込むように横目に見ている。  こないだ?  コンビニの光の中を通り過ぎる。 「誕生日。ケーキ、食っちまっただろ」  悪かったな、と市倉は済まなそうに言った。  匡孝は目を瞠った。 「え…気にしてたの?」 「するだろ普通、誕生日だぞ」匡孝は吹き出していた。「何笑ってんだ」むっとした顔で市倉が匡孝に言った。  匡孝はこみ上げる笑いを堪えて、だってさ、と返す。 「せんせーっ、そんなのっ、どうでも良さそうな感じなのにっ」  むしろ思いっきり忘れそうなタイプに見える。  あはは、と笑うと市倉は眉を顰めた。 「どうでも良くないだろ」  匡孝は市倉を見上げた。そしてにっこりと笑ってみせた。 「いいから本当に、どうせ一緒に食べる人もいないんだしさ、俺はすごく、嬉しかった」  それは本当だった。  市倉は何かを問いたげに匡孝を見ていた。  問われる前に目を逸らしたのは匡孝だった。 「家族は?」  あー、と匡孝は呟いた。「バイトだからって、俺行かなかったから…」 「なんでだ?」 「なんでって…」 「休みだっただろ?」  匡孝は振り向いた。そこはすでに闇の中だ。離れてしまったコンビニの明かりが、足を止めた市倉の後ろに小さく見えている。 「なんで知ってんの」  市倉は肩を竦めた。 「あそこにいたから」  そう言って市倉が指さしたのは小さな光だ。遠く離れたコンビニエンスストア。 「おまえが通りかかりそうな時間に待ってたんだよ」  市倉はそう言ってジャケットのポケットから何かを取り出した。 「まあ、傍から見たら俺は立派なストーカーだな…、ほら」  手を出せ、と促されて、匡孝は右手を差し出した。 「知り合いに、こういうのに詳しい奴がいるんだ」  その手のひらを体温の高い指が返した。  取り出した何かを匡孝の手に載せる。軽い重みが匡孝の手の中にあった。 「誕生日おめでとう」  手のひらの上には小さな青い石があった。  暗闇の中でも分かる深く青いそれは原石だ。端の方に細い紐が通されている。12月の石だと市倉は言った。  お守りのようだと、匡孝は思った。 「ありがとう、先生」  目の前が滲みそうになって匡孝はそれを堪えた。  握りしめた青い石は市倉の体温を移されたように温かかった。  家への道のりを再び歩き出す。  今好きだと言ったら市倉はどういう顔をするだろう。  好きだと毎日のように言っていた。でもここ最近はその言葉を匡孝は口に出来なくなっていた。好きだと思う気持ちが強くなるほどに、好きだと言えなくなっていく。他愛のない会話、返される視線の何気ない仕草の中に、今までとは違うものを感じている。同じ気持ちを見つけようとするよりも早く、それは、確かにそこにある気がした。  最初は自分の方が押していたはずだ。追いかけていて、背中ばかり見ていて、振り向いて欲しくて──それが逆転したように思ったのは、いつからだっただろう…  それは市倉も同じだろうか。 「じゃあまたね先生、月曜日」  匡孝は市倉に手を振った。 「江藤」  市倉が言った。そこはマンションの見えるところ、前回別れた場所だった。ここまででいいと、匡孝が言ったのだ。 「何かあったら、いつでも俺の所に来い」 「え…」  わずかに離れた距離の先で、市倉はまっすぐに匡孝を見ていた。 「なんでもいいから俺に言え」  白い息がその空間を埋める。 「ひとりで抱え込むな」  黒い髪の間から市倉がこちらを見ている。 「先生…」  気持ちが溢れ出していく。  好きだと言いたい。冗談なんかじゃない。本気で好きなのに、その一言がこんなにも苦しい。  もうだめだ、と匡孝は思った。  だめだ。 「せんせーも、俺に言ってよ」  声が震えそうになる。  笑われたら生きていけそうにない。 「何かあったら俺に言ってよ」  匡孝の鞄の中で携帯が震えている。それを掛けてきたのが誰だか知っているので匡孝は無視した。今日一日中掛けてきたほどだ。あとどれくらい無視したところでどうなるというものでもない。 「俺…先生のこと好きだよ」  匡孝は市倉を見れなかった。 「好きだって言ったの、本気だから、冗談とか、そんなんじゃなくて…っ」  ああ、と市倉が言った気がしたが、匡孝は構わなかった。  目の淵に引っかかった何かが今にも落ちそうだ。  落ちるな、と匡孝は願った。 「ほんとに、だからっ、気持ち悪いならもう、見ないから」  だから嫌いにならないで、と飲み込むように早口で言ったとき、くしゃりと髪が掻き混ぜられた。 「ならないよ。大丈夫だから、泣くな」  温かな指が頬を拭った。  溢れてくる涙は指では追いつかず、市倉は手のひらでくるむようにして拭いてくれる。 「泣くなよ、大丈夫だから」  目を見開いたまま泣く匡孝を見下ろして市倉は困ったように笑った。喉を引きつらせるようにしゃくりあげると、子供をあやすように抱き込まれて、背を撫ぜられた。縋りついた腕は大きくて、ひどく安心した。そういえばこんなふうに誰かに弱い自分をさらけ出したことは本当に久しぶりだと思った。市倉に泣き顔を見られるのは2度目だ。  でも、あの時とは違う気がした。 「……っう…」  こんな、人がいつ通りかかるかもわからない場所でどうしよう。  そう思うのにいつまでも止まらなかった。どうしようどうしよう、と思うたびに大丈夫と囁かれた。  大丈夫、大丈夫だから。  そうして匡孝の中にある冷たく硬く閉ざされた何かが全部流れ出していくまで、ずっと匡孝を抱き込んだまま、市倉はその背をさすり続けてくれていた。
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