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 移動教室の合間に忘れていた眠気が襲ってきて、ふあ、と匡孝はあくびをした。昨夜遅く、祖母の家に行っている4つ下の妹から電話があり思いのほか長話をしてしまったのだった。何かにつけしっかり者の妹は離れている兄を心配してか連絡をまめに寄越してくる。 「…ねむ」  ごし、と濡れた目元を拭う。廊下の窓から見える午前中の空の青さに目がぱしぱしする。  ちゃんとご飯食べてるのかって…  そんなに頼りないか。  昨日の妹とのやり取りを脳内反芻しながら匡孝は教室へと戻ろうと歩いた。と、廊下の曲がり角からにゅ、と出てきた手に腕を掴まれる。「わ」と匡孝は声を上げた。 「なんだよ」笑っている姫野に匡孝はむっとする。「危ないだろ」 「ごめんごめん」  まったく悪いと思ってない顔で姫野は匡孝を階段の踊り場に引っ張っていく。 「ちかさー昨日話したやつなんだけど」 「会わないって」  切り出される前に匡孝は答えを言った。 「えーホントに?マジで要らないの?」 「要らないの」  こういう話になると姫野はしつこかった。普段は割とあっさりしていて付き合いやすいやつなのに、こと男女の、というか恋愛話全般において執拗な執着を見せてくる。眠気より厄介な姫野の懇願するような視線に匡孝は内心げんなりしそうになった。小学校からの友人という気安さはその距離感にも表れていて、時々ひどく厄介だと思う。 「もったいなくない?会うだけでもいいじゃん」  それでも食い下がってくる姫野の声に、次の始業を告げるチャイムが鳴った。 「あーもう、やばいって」  匡孝はそう言って渋る姫野を促し階段を駆け下りた。  昼休みに入る前に匡孝は担任から呼び止められた。 「江藤、おまえ進路希望表は?」 「あっ」  先週出すように言い渡されていたと思い出し匡孝は固まった。 「忘れてた…」  おまえねえ、と担任の深津に呆れたように言われてしまう。匡孝は背を丸めて反省を姿勢で表した。見上げた深津は自分の肩をとんとんと教科書で叩いている。 「放課後進路指導室来い」 「ええーっ」  さすが50歳も近いベテラン教師は何事にも動じず声も滅多に荒げたりしないが、その言い渡された内容に匡孝のほうが声を上げた。放課後、とつぶやく。放課後はやだな。 「いっちゃんとデートだもんなー」  教室の出入口で話していたので、そばで弁当やらパンやらを広げていた同級生たちが話をバッチリ聞いていて茶化してくる。デート、と言われて匡孝は顔が赤くなるのを止められない。 「やめろよっ!」デートとか言うな。  恥ずかしすぎて死ぬ。 「おーそうなのか」  深津が頷く。 「毎日じゃん?」 「ほー」  担任を含む数人の視線に匡孝は目を逸らさずに恥ずかしさを耐えた。ここで逸らしたら負ける。何に負けるというのか、気持ちが、自分に負ける気がする。 「あ、いっちゃん!」  同級生が匡孝の後ろを見て言った。ぎょっとして匡孝は飛び上がりそうになる。 「あー市倉先生」深津も呼びかける。 「購買ですか」 「朝買い忘れたもんで」かさりとパンの袋の音がして匡孝はそっと振り返る。 「いっちゃんパンなにー?」 「焼きそばパンだよ」  いつもの姿で市倉は匡孝の後ろにいて、匡孝越しに同級生に答えている。柔らかなグレーのスーツの下にはいつものニットのベスト、昨夜のだらっとした格好からは想像できないほど、学校での市倉は先生というものが様になっていた。髪だってちゃんとぼさぼさじゃない。  クリームパン美味いのに、と言った同級生に市倉はちょっと顔をしかめてそんな甘いもん飯になるかと言った。笑い声が上がり、市倉は匡孝を見た。 「なんだ、怒られてんのか」 「違うっ」  急に目が合って匡孝はどぎまぎする。  変な顔してないだろうか。 「へえ?」 「進路のことで話してたんですよ」深津がにこにこと市倉に言う。「あー放課後ちょっと江藤借りますけどいいですかね」  深津の言い方に匡孝はぎょっとする。なにその言い方! 「はい?」 「ちかと毎日放課後デートじゃん?」 「なッ!」なに言ってんだ、と匡孝は同級生を睨みつけた。  慌てる匡孝を横に深津が言う。 「放課後お世話になってるそうで」 「ああ…」市倉は匡孝を見た。ちらっと目が合って、市倉はにやっと笑った。 「どーぞどーぞ」 「じゃあ遠慮なく」 「問題ないですから」 「ええっ…」  そんな品物みたいに差し出すなよ!  ぽん、と市倉は匡孝の頭に手を置いてくしゃっと髪を掻き混ぜた。 「じゃあがんばって指導してもらえな」 「え!」  掻き混ぜられた髪を抱えて匡孝は市倉を見た。じゃあな、と市倉は匡孝に言って深津に会釈して廊下を歩いて行った。 「じゃあ江藤、放課後な」  深津がぽん、と匡孝の肩を叩いて去っていく。  今日はもう会えない。  授業もないし… 「ちか、飯は?」と言われて、匡孝ははーと大きくため息をついて、 「食欲ないかも…」  と呟いた。  放課後の進路指導室には深津がいた。進路指導も兼任しているので、知った顔で匡孝は良かったと思った。 「家の事情はお祖母さんから聞いてるけどな…」深津は言いながら手元のファイルをめくる。「少し結論を急ぎすぎてないか?経済的には問題ないんだろう?」 「まあ、そうです」 「うーん…お母さんは…」  深津は匡孝を見る。目が合った匡孝は申し訳ない気持ちになる。深津が困っているのも分かるからだ。 「すみません」 「おまえが謝るなよ」深津が苦笑する。「まあでも、そうだな…、お祖母さんには、おまえが頼りたくないのか」  はあ、と匡孝は答える。 「妹と弟が世話になっているので、これ以上は、っていうか、ばあちゃんも仕事してるし…」 「うん」 「あんまり心配かけたくない、です」 「そうか…」  ぺらりと紙がめくられる。でも、と深津は言った。 「お祖母さんからは、何でも言うようにって言われたんだけどなあ」 「先生」  匡孝は思わず声を上げた。それを見て深津が分かっているというふうに頷いた。 「おまえがいいって言うまで言うつもりはないよ」  ほっとした顔をした匡孝を見て深津が笑う。  分かりやすいなと深津に言われて匡孝も笑う。 「そうだな、お母さんにもし連絡がついたら教えてくれ」  こっちからも連絡してみるから、と深津が続ける。それを匡孝は首を振って断った。 「大丈夫、です」 「おまえなー俺の仕事取るなよー」 「ははっ」  ふざけた言い方をして深刻になりそうな雰囲気を変えてくれた深津に匡孝はありがたいと思った。深津はぱたん、とファイルを閉じた。 「じゃあもう今日は帰っていいぞ」 「はあい」 「あーそうそう」  席を立って引き戸に手をかけた匡孝に深津は言う。 「市倉先生によろしくな」 「なっ…」  匡孝は不意打ちに返す言葉もない。 「せ、っ、あの、いや…今日はもう」  会わないしっ、と裏返った匡孝の声に深津は笑う。 「そうか?」  待ってたりなんてそんなのはない。  はず。 「準備室で作業してるらしいぞ」 「えっ」  はず。  深津はファイルでとんとんと自分の肩を叩いた。 「早く行けば」  深津に促される。 「せんせ、さよならっ!」   匡孝はだだっと走り出した。ぴしゃりと閉めた扉の向こうから分かりやすいなあ、と笑う深津の声がしていた。
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