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 元は古くからある工業系の県立高校だったこの学校は15年ほど前に少子化の影響を受けて一度他校と併合されるという形で廃校となり、その後私立男子校として復活した。偏差値はそれほど高くもなく、位置づけとしては受験の際のすべり止めというところか。とりあえず受けておけば、よほどの失敗をしない限り誰でも入れるというレベルだ。匡孝も例にもれずそのようにして受けた口だった。その中でも匡孝の成績はほぼずっと中の上と悪くはなく、その進路さえ決まれば、そこそこの大学には――努力さえ惜しまなければ合格は出来るはずで、だからこそ深津は匡孝のことを気にかけてくれていた。気にかけてはくれていたが、しかし…  匡孝は本校舎の一階の端にある国語準備室と呼ばれる資料室へとたどり着いた。通常の教室の半分ほどの広さのそこは国語教師がよく授業で使うプリントなんかを準備する場所で、市倉も日ごろからよくここに籠って作業をしていた。  走ってきたので肩が上下している。はーと深呼吸してから、なんだか震えそうになる手でコンコン、と引き戸をノックした。中からはい、と市倉の声が聞こえた。 「せんせー…?」  引き戸をそろそろと開けると、市倉は大きな作業机の上で資料を広げていた。携帯やら辞書やらファイルやらが乱雑に散らばり、手元の本に目を向けたまま匡孝に言う。 「終わったのか」 「うん」  そろそろと部屋に入り後ろ手に引き戸を閉める。市倉の後ろには窓があり、校庭の銀杏の木が見えた。時々ひらひらと黄色い葉が落ちてくる。そのさらに向こうでは野球部の生徒たちが走り回っていた。 「ちょっと茶淹れろ」 「は?」 「そこにポットあるから、喉乾いたわ」本をたどる指を休めずに市倉は窓のそばの棚を指さした。なるほど、電気ポットや急須や湯飲みやマグカップやなんやかんやの茶葉やら珈琲やらがプラスチックのかごにひと纏めに置かれている。その中から甘そうなスティックコーヒーをつまんで匡孝は呟いた。 「先生たちってずるー…」  匡孝が呟くと市倉がふん、と笑った。 「骨身を削って働いてんだからそれくらい許されるだろ」  ふうん、と匡孝は振り返った。 「身を粉にして」 「そうそう」 「で、先生何飲むの?」 「普通の茶」  へいへい、と匡孝は作業机に据えられた椅子の上に荷物を置いて急須に茶葉を入れた。適当な湯飲みに一旦ポットから湯を注いで、それを急須の茶葉の上に注ぐ。字を書くさらさらとした音と外から聞こえる部活生の声しかしない部屋の中に、緑茶の神経を鎮めるような匂いがふわりと漂った。匡孝は湯飲みにお茶を淹れ、作業机の上の市倉の邪魔にならないところに置いた。 「どーぞ」 「どうも」市倉は紙の上に視線を落したままだ。「おまえもなんか飲め」 「え、いいの」  好きなの飲んでいいぞ、と言われて匡孝はどれにしようとかごの中を漁る。 「甘いのもあるだろ」 「子ども扱いすんな」  あ、これがいい、と匡孝が選んだのは結局甘めのカフェオレだった。 「う、わ甘あ」 「結局甘いの選んでんじゃねーか」  くくく、と机の角を挟み斜めに向き合って座る市倉が茶を啜りながらさもおかしそうに笑う。マグを抱えて匡孝は口を尖らせた。 「甘さ控えめって書いてあったんじゃんっ」 「そりゃもう甘いってことだろ…」 「なんだよもー」笑うな、と匡孝は市倉に言う。 「ひとつ学習したな?」  市倉はこみあげる笑いをかみ殺して湯飲みを傾けた。だらりと椅子の背にもたれ掛かる姿は、授業の時よりも数段砕けていて、匡孝は肩から力が抜けていく気がした。暖かい部屋の中に午後、夕暮れ前の陽が差し込んでいる。きらきらとした埃がたくさんの積み重なった本の上に、棚の上に、マグから立ち上る湯気の中に、溶けて消えていく。 「進路の話、進んでんのか」  緩やかに流れる時間。  うーん、と匡孝は言いよどんだ。 「どうかなあ…」  進学をしないと言ったことが、こんなにも大変なことだとは――周りを慌てさせてしまうことだとは匡孝は思いもしなかった。自分の人生だ。自分で決めたい。自分が決意したことを、いずれ後悔する時が来ないとは言えないけれど… 「まあ自分の事だからな」  目を向けると市倉もこちらを見ていた。 「成績、悪くないだろ」 「まあ…」  どうかな、と匡孝は首を傾げる。良くも悪くもない感じだ。まあ姫野よりは、いいかもしれない。 「なのに国語だけ赤点だな」  穏やかに笑いかける市倉に、匡孝は見惚れる。  匡孝は言葉を失くした。  この一瞬が、ずっと、  ずっと――  落ちた静けさの中に電子音が鳴り響いた。デフォルトの味気ない音、机の上、市倉の携帯だった。何気に目をやって、匡孝は、あ、と思う。心臓が跳ねた。携帯の表示画面が上を向いていて見えてしまう。掛けてきた相手の名前は、花田(はなだ)。  ――花田(はなだ)りい  来た、と匡孝は思った。  どくどくと心臓が早鐘を打つ。 「…出ないの、せんせ」  市倉は携帯に出ない。鳴り続ける着信音に一瞥を寄越したきりで、放置していた。やがて音が止む。市倉はようやく手を伸ばして表示を確認してからまた無造作に放った。 「出なくて、よかったの?」  匡孝はその仕草を目で追ってから言った。 「仕事中だからな」 「か…」声、震えるな。「…彼女、じゃないの?」  マグを握る手がぎゅ、とする。さりげなく言えた気がしない。  目が上げられない。  落ちた沈黙が怖い。 「まさか」  市倉がなんでもない風に言う。「知り合いだよ」 「そ、そう…」  やばいどもった。  俺みっともない… 「江藤」  くしゃっと髪を掻き混ぜられる。「今日もプリントやってくか」 「――」  やばい。  目を上げると近すぎて体温が一気に上がった。匡孝はぐいっとマグの残りをあおる。プリントを取ろうと立ち上がった市倉のスーツの袖を思わず匡孝は掴んだ。 「先生っ…」  びっくりしたように見下ろす市倉と目が合う。言いたいことが喉の奥に張り付いて言葉にならない。  どうして。 「なに…」  怪訝に眉を寄せた市倉を見上げる。その子はダメだ。  その子を好きにならないで。 「俺――」  俺が先生を守るから、その子を好きにならないで。  その子のところに行かないで。  俺が先生を好きだから。 「…も、っ、帰る」  掴んでいた手を放して匡孝はがたがたと立ち上がった。飲んだマグをそのままに荷物を引っ掴んで抱えた。 「江藤」 「今日、バイト、早めになってた…っんだった…っ」  市倉が異変を感じて匡孝の腕を掴む前にそばをすり抜けて出入口に向かう。引き戸を開けて匡孝は笑って振り向いた。 「じゃあ先生、また、明日ね」 引き戸を閉める。閉める瞬間こちらを見ていた市倉の顔。  しばらく忘れられそうにない。  すり抜けた瞬間の煙草の匂い。  ちゃんと笑えていただろうか。  分かりやすいなあと笑った深津の声が耳の奥で聞こえた気がした。
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