なのくん

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わたしは今月いっぱいで今の仕事を辞めることにした。一年半悩んだ。 十日前、やっと上司に云えて、少しだけど気が楽になって、少し遊ぼうと思ったけれど、Aちゃんは疲れてて、Bちゃんも疲れてて、Cちゃんは子宮筋腫で入院してて。かなと一泊二日で箱根に行くことになったのに、ドタキャンされて、二日空いてしまって、なのくんにメールしたら「うんじゃあくればー」と云ってくれた。 かなはひと月生理がおくれている上、偏頭痛が悪化したという。わたしとわたしの女友だち達は、皆がんばって疲れてゆく。なのくんと色々ちがう。 幸ちゃんは、今日はたまたま休みだったけれど、週休一日でサービス残業の権化としてのカーディーラー。だからやっぱり疲れていて、よく「もう無理、辞めたい」と、なのくんに云うのだそうな。 従兄だけあって、幸ちゃんとわたしは赤ちゃんの時の顔がそっくりだったのだけど、今ではどこも似ていない。幸ちゃんはおじさんに似てきて、わたしはとうちゃんに似たのだった。 なのくんは「このご時世に仕事もボーナスもあるの有り難いんだから辞めんなよ」と云うのだそうな。 世間からニートとヨコモジで呼ばれている弟にそう云われて、お兄ちゃんは怒るでもない。また疲れたまま車を売りにゆく。 うちの母は、なのくんは病んでいるのだと云う。 決して丈夫でもない女の子のりくでも頑張って働いてるのに、健康で男で働かないで暮らすなんて異常で、病院に行った方がいいのに、りっさちゃんがほったらかしにしているから悪いと。ぜったいどっかおかしいか病気なのよ。 しば漬けをつまむ幸ちゃんに 「あれさ、かして。りくちゃんに見せようよ」 弟が云うと、即座にりっさちゃんも 「あ、いいんじゃない」 と、声が弾む。 自分のでないスマートフォンを慣れた手つきで触って、何かのフォルダを開く。 「これね、今兄貴がイチオシの車。どう思う」 ふつうの黒い車だった。わたしは車に詳しくないからそう見える。 「ふつうって感じ?」 なのくんが楽しそうに云い、めずらしく幸ちゃんがお腹からしっかり声を出す。 「いいの、これは。玄人好みなの。俺の趣味はいいから他のもっと派手なの見せてあげて」 ひひひと明るく笑った弟は、小さなPCを操って、さっきのよりイケメンな車が、一流サーファーが波と遊ぶように道を走っている動画を映した。 しば漬けを切り上げて兄はわたしの近くにやって来る。イスに座り 「なんか、これとか、やな感じじゃない」 わたしに同意を求める長男を三人が笑う。 「まぁこういうのは人それぞれだからなぁー。コウは、渋好みなんだよ」 おじさんがポッキー片手にフォローする。一部上場企業を退職したばかりのおじさんは、アーガイルのニットベストの下に、ワイシャツを着ている。なんか昔からニットベストがすきな人だ。 兄から車の値段を聞いた弟が 「うっわ高!俺働いてねーから一生買えねぇなァ」 と云い、全員笑う。おじさんはポッキーを三分の二食べて、 「まぁ、そしたらコウが買って二人でシェアーすればいんでないかい」 「だから俺は派手なのはやなのっ」 車の事になると子どもに戻るのね。 「シェアはいいの」 訊ねると、にこやかに 「うん別にいいよ」 と云う。 なのくんは、小さなPCを兄に返してキッチンに行った。りっさちゃんと何か話している。さすがに手伝いに行こうかと見ていると、おじさんが 「りくちゃんは細いねえ、うちの暖房でさむくないかい」 「いえ、全然」 「車とか、興味ないよね」 「ううん、詳しくはないけど、かっこいいとかは思うよ」 「まったくねぇ、柄にもない、シェアーとか云って、りくちゃん来てるから親父かっこつけてんだよ」 「ははは、いやー、参ったな」 ほんとに全然さむくない。十二月だけど。うちはアパートの一人暮らしで、今月で仕事辞めるから、なるべく暖房も使っておらず、湯たんぽを抱えてテレビ見たりしていることを、なのくんは知らない。 母は、甥のなのくんを強制的に北海道か九州の知り合いの農家のどちらかに送りつけることまで視野に入れている。 三十になったらどーすんの、どーにもなんないわよ働いてない三十男なんて。母親も悪いのよ、めんどくさいから怒らないなんて。信じられないわ、無責任よ、社会に対して。 わたしはそういう時電話越しに「うーんまあね、そうかもね」と、適当にやり過ごす。 母とりっさちゃんはお嬢様育ちだったが、なぜかりっさちゃんだけ十八から働き出し、十九でおじさんと結婚した。ボーナスが出る度に、シャネルだのディオールだのぜいたくな服いつまでも買ってるのよ、あたしは子供が居るんだから服はちゃんと自分で作ってるわよ、りっさちゃんはそういうとこ、甘いわよ。
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