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「自分何してんねん? そんなんしてたらいつまでたっても帰られへんやろ!」と政岡は再び怒鳴ってきた。
これは不味い。危機迫る状況だ。何とか政岡の怒りを静めなければならない。俺は覚悟を決めた。
不自然と分かりつつも俺は満面の笑みを作った。そして、「すいません!」と政岡に深く頭を下げた。
その瞬間に声がひっくり返ってしまったのが自分でも分かる。それでも俺はしばらくの間、頭を上げずにジッと床を見つめ続けた。
そんな俺を見て呆れてしまったのか、政岡は深いため息を吐いて首を横に傾げてから急ぎ足で事務所を出て行った。とりあえず殴られずには済んだようだ。しかし政岡はまだ怒っている様子だ。
(嫌われたらどうしよう……)
俺の心の中で不安ばかりが募る。だかしかし、そんな不安に駆られているのも束の間、再び俺のすぐそばで強い視線を感じるではないか。
もしやと思い後ろを振り返ると、やはり伊田野が俺を見ながらニヤニヤと笑っていた。俺は反射的に愛想笑いをしながら身を縮こませた。
「そのリュック、パンパンですけど中に何が入っているんですか?」と伊田野は突然そんな質問を投げかけてきた。
これは意外な質問だった。伊田野が笑っていたのは俺と政岡のやり取りではなかったのだ。と言うより、彼は俺が毎日背負っているリュック・サックが気になっていたようだ。俺は思わず気が動転してしまった。
「いや、これは仕事の、で、使って、ンー……」と俺は必死に自らの思考をフル回転させた。そして伊田野を納得させるに相応しい言葉を探し始めた。
しかし伊田野の質問に対する相応しい答えがどうしても浮かんでこない。しばらく俺は黙り込んだ。だがしかし、その合間でも俺は愛想笑いの姿勢だけは崩さなかった。
すると伊田野は自身のタイム・カードを手に取り、慣れた手付きで機械の天辺の穴に差し込んだ。
ジジッ、とカードにトナーが打ち付けられる音がした。その後すぐに彼はカードを所定の位置に戻した。そして「お疲れ様でした。早く帰りましょう」と笑顔で事務所を出て行った。去り際に何気に彼の左手が俺の視界に入ってきた。
伊田野の薬指には、結婚指輪がはめられ眩く光っていた。
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