その手首を離さない

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 飼い猫の首輪のような小さくて細い腕時計を見ると、十二時ちょうどを指していた。  太陽が梅雨の合間を縫って輝いている。晴れてくれて良かった。海が見えるカフェのテラス席で、大学卒業以来久しぶりに会う友達、ユミコとのランチ。 「ね、リサはまだ、あいつと付き合ってるの?」 「まだって……この前一年経ったばっかりだよ」  ユミコは大袈裟に手を広げて見せる。 「一年!早いね!何かしてもらった?」  二人のパスタが運ばれてきた。話を一時中断して、ユミコはパスタの写真を撮る。変わらないな、と微笑ましく思う。 「そっか、さっき家に忘れたっていってたね」 「うん、まさかスマホ忘れるなんて……」 「しっかり者のリサが、ドジったねえ」  一口食べて、味の濃さに少し驚く。そういえば外食も久しぶりだ。 「それで、どこかディナーでも行ったの?」 「……ううん。ネックレスをくれた」 「へえ、意外とやるじゃん。学科で一番気が利かなそうな顔してたのに」 「……そういうの渡すの好きみたい」  付き合いたての時に彼から貰った腕時計を触る。彼は今頃どうしているだろうか。  私のスマホを見ているのは間違いない。 「じゃあ上手くいってるんだ?」 「え、うん」 「そっか。心配だったんだよねー。ちょっと束縛強そうな感じしたから」 「そんな……ことないよ」 「ちょ、リサ、パスタ巻き過ぎ!口入んないよそれ!」  知らぬ間に、ピンポン玉より大きいくらいのパスタを巻きつけていた。 「わ……やりすぎた」 「それ食べてるとこ撮りたい!やってみて!」 「いや、これ、きついよ!」  試しに口を開けてみて、その写真を見て、私達は大笑いした。  近くのお客さんからじろりと見られて、必死に声を抑える。 「ひー……リサの口がそんなに開くの初めて見た」 「私も。こんなに阿呆面してると思わなかった」  ユミコがまた写真を見せてくる。二人とも口を押さえた風船みたいに笑いを堪える。 「こんなに笑ったの久しぶり……」 「……ねえ、リサ」  ユミコの声が変わった。 「今日誘ったのはさ、リサが悩んでるんじゃないかなって思って。あいつと付き合い始めてから、元気ない気がして」  手首が締め付けられる。 「それは……就活の時期だったから」 「その癖、前はなかった」  ユミコは私の手に触れる。  無意識に握り締めていた手首が解放される。  いや、まだ、腕時計がついたまま。 「暴力とかされてない?」 「そんなの、ない……」  ユミコは腕時計に指をかける。  彼女の指。  頼りなく細白いのに、赤いネイルは鮮やかに力強い。  腕時計のロックが外される。 「ユミコ……私、大丈夫だから……」  腕時計がゆっくりと、  手首から、  手を、  指を、抜けていく。  手首に解放感。  今初めて血が通っているようだった。  ユミコは私の手首を優しく包む。 「あの頃は私の気のせいかなって言えなかったけど、今は確信できる」  ユミコは微笑んでいる。 「ね、リサ。もう戻らない方がいい。私も協力する」 「……ユミコ」  私はユミコの手首を握る。  強く。  彼女も握り返してくる。 「私も、誰かに言いたかった……。でも、ひとりになるのも怖くて……。ありがとう、ユミコ……」  私の指は、彼女の手首に吸い付き、皮膚に浸透するようだった。  ユミコの家に泊まるつもりで、でも取りに帰りたいものがあるからと、家に戻った。  腕時計がないから、たぶん二十時くらい。  玄関も、廊下も、電気が点いていない。  彼はいるはずだ。  仕事は休みだし、私を待つ他にない。 「リサ……」  覇気のない声がリビングから聞こえた。  玄関の電気を点けると、彼は寝間着のままふらふらと近づいてきた。 「リサ……びっくりしたよ。朝からいないし……スマホを忘れてるから連絡が取れないし……」 「ごめんなさい、友達と会うって言うの、忘れてた……」  彼は私を抱き締める。 「いや、いいんだよ。帰ってきてくれたから……」  彼の手が、軽い手首を握る。 「あれ……僕があげた時計は……?」  手首を握る、力が強く、なって、  彼の指は筋張って白く、  私の手は鬱血して青く、  私は、思わず、彼の手を振り払った。  彼は目と口を虚しく開けている。 「リサ……まさか、友達って言うのは……。でも、連絡取ってたのはユミコだった、のに……」 「友達だよ。私の手を取ってくれる、大事な友達」  私は彼を押し退けて部屋に入る。  着替え、化粧品、目に付いたものをバッグに詰める。 「リ、リサ、何してるの?」 「しばらくユミコのとこに泊まる」 「な、何で!そんな!待ってよ!」  私を掴もうとした彼の手を跳ね付ける。 「何でって……あなたと同じように、私もあなたのスマホを見てるの」  彼の顔から一気に血の気が引いたように見えた。 「あなたがいれば良いと思っていたけど、他にも飼い猫がいるみたいだし、私はもう用済みね」  踵を返し、彼の声を背に、私は家を出た。    タクシーが来るまでの間、夜道でひとり。  まだ冷たさが残っている。  自分の肩を抱くと、そのまま内側に潰れそうな気がする。  縛り、縛られ、それでも孤独から逃れられない。  だから離さないで。  私も、その手を離さない。
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