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1.雪の帰り道
その日は朝から空気が冷たく、空は白い雲に厚く覆われていた。天気予報は
「平野部でも雪となるでしょう」と言っていた。
革の手袋にマフラーは必需品だ。俺は身支度を調えて自宅であるマンションを出た。
出社すると、どうも違和感があった。
なんとなく社内がそわそわしているのだ。理由が俺、鳴上秋央にはわからない。そのわからなさは昼休みに頂点に達した。
「あ、雪!」
窓際のレビュー用机で昼食を摂っていた女性社員グループの一人のたったひと言で、フロアの少なく見積もって四分の一の人間が一斉に窓に寄っていったのだ。それは部長クラスも例外ではない。
「ああ、ついに降ってきたね」
「これは積もりそうですね」
「羽根が降っているみたい」
「タイヤにチェーンが必要になったりして」
「スタッドレスに換えといてよかったー」
たかが雪に何だ、この騒ぎは。
肇も当然のごとく窓際に行っている。隣にいる女子社員とにこにこしながら話をしている。少し面白くない。
俺はスマートフォンを出してメッセージを送る。
『今晩、グリーンカレーにする』
餌で釣ってみた。
肇がスマホを取り出した。
『泊まりでお願いしまーす!』
胸のもやもやがすっとした。
坂下肇は俺の恋人だ。六歳年下の二十三歳。合気道道場の息子で、段位は三段と聞いている。
梅雨のある日、俺をずぶ濡れでつけてきた坂下から告白され、付き合うようになった。そして東京から俺を追って来たストーカーから守ってくれた。
この街に逃げて来ても怯えて暮らしていた俺に、心からの安心を与えてくれた肇には感謝してもしきれない。
性格は明るくて、ちょっと抜けていて、ムードメーカー的存在だ。仕事に関しては意欲はあるが、若い分ケアレスミスもする。ただ、根本的に独りよがりのない素直な性格で、わからないことをわからないままにして突っ走ることがない。しっかり質問してくれるので仕事を任せるのに不安はない。
昼から降り出した雪は降り止まず、窓から見える風景は真っ白に染まっていく。山間部に住んでいる社員の中にはフレックスタイムで早めに帰宅する者も現れた。
午後四時には「今日は全員定時で帰るように」と通達があった。
(この程度の雪で大袈裟な)
俺は正直そう思った。
「大袈裟なんかじゃないですよ」
駅に向かうぎゅうぎゅう詰めのバスの中で肇が言った。
「この辺は年に一回も雪が降らないことだってあるんです」
え?
「雪が積もるのなんてそれこそ五年にいっぺんくらいですよ。誰も彼も雪慣れしていないから簡単に転ぶし、バスなんかも早めに運休しちゃうし、車だってみんな雪の上の運転なんて慣れていないどころか、チェーンも持ってないからスリップ事故は増えるしで、歩道を歩いていたって油断大敵なんです」
そうなんだ。
確かにここの会社を選んだ時、「ここは温暖ですから、過ごしやすいですよ」と言われた覚えがある。裏を返せば「寒さが厳しくない」=「雪が降らない」になるのか。
終点の駅でバスから解放されて、ここからは徒歩だ。幸い雪は一時的にやんでいた。今のうちに帰り着きたい。
さくさくと音を立てる足元が滑りやすい。そういえばこちらに来て防滑機能のある靴は履いていなかった。天気予報を見たのに初歩的なミスを犯してしまった。一緒に歩く肇も何だか腰が引けていて、笑える歩き方だ。
肇がきょとんと俺を見た。
「何ですか?」
「いーや、何でも」
俺は笑みをかみ殺した。
肇がにこにこという。
「こんなに雪が積もっていたら、雪だるまを作らなくちゃいけませんよね」
「いけませんよねってのは何なんだよ、いい大人が」
隣を見ると肇は目をきらきらさせていた。
「こんなに綺麗な雪が積もっているんですよ。雪だるまを作るでしょう?」
「意味がわからない」
本気でわからない。
「どうしてわからないかなぁ」
肇は肇で、俺のことを不思議がっている。
謎の沈黙が俺たちの間に落ちた。
人気のない歩道を二人で歩いていた時、奇妙な動きをする二人の男がいた。笑いながら足を蹴り上げて雪を飛ばし、足を踏みならすようにどんどんと雪を叩いている。それは少しずつ横へ移動しているようだ。
何をしているのかわからずにいた俺に肇が言った。
「バッグ見ていてください」
その場にバッグを置くと、あっという間もなく雪の歩道を進み、男たちのところへ近づいていった。
俺も肇のバッグを持って後を追った。
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