カワウソのハリー

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 大学の四コマ目が休講となり、夜のバイトまで暇を持て余した俺は、繁華街へと繰り出した。  クリスマス前の賑やかな通りは、キャンパスから徒歩で二十分以上はかかる。  バスを使ってもいいが、その日は散策がてらのんびりと歩くことにした。  大学から出てすぐ、川沿いに下る道は冬風が身に染みる。  これは失敗したかなと思い始めた矢先、真新しい立て看板が目に入った。  雑踏にはまだ早い、大通りに入る直前のテナントビル、その二階に新しい店が出来たらしい。  “カワウソに(さわ)れるお店”  青地に白の看板には、キャッチフレーズと共に、コーヒーやショートケーキのイラストも散りばめられていた。  キャッチではなく、これが店名かもしれない。  看板の上端には、最大のウリであろう“カワウソ”の写真が貼ってあった。  ラミネート加工された艶やかな写真の中から、つぶらな瞳が俺を見る。  大学ではクールなボッチを気取る俺――ではあるが、正直に告白しよう。  可愛いものが大好きなのだ。毛の生えた動物には、特に弱い。  ちょっと生意気なカワウソの微笑が、俺の心にクリティカルヒットした。  おそらく、最近流行りの動物カフェであろう。  猫やフクロウの店が少し離れた場所にあり、そちらへは既に何度か訪れた。動物を見たり、時にはスキンシップを楽しみつつ、ひと時のコーヒーを愉しむ。  大抵はカップルや親子連れで満席だったが、上手く時間を見計らえば、一人で満喫する者もよく見かけた。  そんな同好の士と一期一会の交流を持つのもまた、動物カフェの醍醐味だろう。    ビルには他にも店が入っており、入り口は看板やチラシで満艦飾に彩られている。  しかし、古着屋やアクセサリーショップなど、俺にはどうでもいい。  カワウソだ。  ツル毛のカワウソが、俺を呼ぶ。  躊躇(ためら)うことなく、俺は上への階段へ足をかけた。  二階に上がって廊下を突き当たりまで行くと、看板と同じ青いドアが在った。  自動ドアかと思いきや、今時珍しい引き戸とは。やや重めのドアを開き、店内へと入る。  眩しいライトが、観葉植物やメニュースタンドを照らしているものの、店員が見当たらない。 「すみません……」  誰もいないのかと見回していると、メニューに大文字で書かれた注意に気づいた。  “注文は奥のカウンターで伺います”  セルフサービスで、各自が料理を取ってくるシステムのようだ。  ファーストフードと同じだな。  ならばよし、と、茂る植木の葉を押し退けて奥へ進んだ。  順路らしき矢印の標識があり、それに従って蛇行する通路が続く。カウンターまでは、予想外に遠い。  食べ物にありつくより先に、低い柵で囲われたホールが現れた。  これは……?  腰を屈め、ポップな文字で書かれた説明プレートを読む。  “店一番の人気者 ハリー・オッターだよ! ハリーって呼んでね”  この店の主役、というわけか。  だが――。  戸惑いが、俺の身を固まらせる。  店の中央にオープンケージが設置されているのは、この手の店ではよくある構造だ。  大概は最も人に慣れた動物が、ここへ陣取る。  カワウソを触れる、というのなら、まず間違いなくハリーがその筆頭のはず。  しかし――ところが、これは。  柵中にいるカワウソは、あまりにも人に似ていた。  丸めた背中をこちらへ向けてしゃがみ込み、何やら一心に床を(いじく)る。  服を着ている。  シンプルな、紺一色のつなぎだ。  これをカワウソと呼んでいいものなのか、俺の心で葛藤がせめぎ合った。  人間、それもオッサンではないのか。  小柄で髪の薄いオッサンに見える。  こいつに触れろと?  どうする。  (きびす)を返し、見なかったものとして通りに戻るべきか。  せっかく発見した動物カフェを、たかがオッサンに屈して引き下がる――。  ――(いな)、ダメだ。  触れもせずに退却しては、貴重な経験を逃すことになる。  可愛いかもしれないじゃないか。  後ろ姿だけで判断するのは、早計に過ぎよう。 「ハリー?」  優しく、それでいて明瞭に声を上げて、しゃがむ姿へ呼び掛けた。  ゆっくりとハリーが振り返り、膝立ちで俺の方へ寄ってくる。  ぎこちない歩き方は、確かに愛らしいと言えなくもない。  何より、キョトンと見返す二つの瞳は真ん丸く、黒目は純真な光を放つ。  禿頭には魅力を感じないものの、フサフサとたくわえられたヒゲが撫でてほしそうに揺れた気がした。  口の周りと、顎からモミアゲにかけて、柔らかい毛が顔を覆っている。  なるほど、モフモフというやつだ。 「ハリー……」  ハリーは顎を突き出し、上目遣いで俺を見つめる。  撫でてほしいんだな。  猫はキュートで、フクロウはカッコいい。ハリーは差し詰め、ブサカワと言える。  これはこれで、新境地を開拓できそう。  目尻の小皴(こじわ)も、少し弛んだ首の皮も、野生で鍛えられた成長の(あかし)。  そんなハリーが口を半開きにして、俺に甘い吐息を吹き付けた。  癒しを求めるリクエスト。  応えてやらなくては。  静かに右手を持ち上げ、毛むくじゃらの顎へ指を差し延べる。  人差し指がヒゲに触れようかという瞬間、遂にハリーが声を発した。 「オープンは来週からです」  店長の言葉に、俺は無言で来た道を戻る。  よかった。  これで、よかったんだよな?  来週も来れば、ハリーの笑顔が見られるのだろうか。  それが人間か、カワウソかはともかく。  新たな扉を開かずに済んだんだと、自分へ何度も言い聞かし、俺は黙って街を行く。  雪がちらついていた。  メリークリスマス、ハリー。
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