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 自分の親が本当の親じゃないなどと思ったことは、一度もなかった。  まだ幼いころに、親から酷く叱られて、自分は拾われたんじゃないかって、真剣に悩んでいる友達がいた。  妹だけが可愛がられていると思い、自分は捨て子かもって、交換日記に書いてきた友達もいた。そんな、すっかり忘れていた小学生時代のことを、優美は突然思い出した。    加湿器から「ピーッピーッ」と音が鳴り、優美は我にかえった。給水しようと優美は、加湿器に足を向ける。腰をかがめ、給水タンクを抜き出したとき、台所の柱に引かれた線に目がいった。  ところどころ薄く、横線が引いてある。 母が年に一度、優美を柱の前に立たせて、鉛筆で印をつけていた跡だった。  優美は柱の前でしゃがみ込み、下から順に指でなぞり、たしかめていった。 「なにしてるの?」母が不思議そうに見る。 「……十五、十六……。高一まで、毎年測ってたんだ……」 「ああ、それ……」母が目を細める。 「優美、いまいくつなの? 背は」 「えー? たぶん……百六十三くらいかなぁ……」 「そう……おっきくなったのね」 「えー? なにそれー」思わず笑う。 母もうふふと笑い、「ほんと、おおきくなったわねぇ……」と優美を見上げ、ぽつりぽつりと語り出した。 「遙が、あの子が突然いなくなってからずっと、あなたずっと泣きやまなくって、どうしようかと思ったのよ……」 「どっか具合でも悪いんじゃないかって、お医者にかけこんだら、えらく怒られてね。オムツが汚れてるって」 「お乳も出ないのにオッパイあたえたり、そしたら火がついたように泣き出して。バカよねぇ……」 母は懐かしげに微笑んでいるが、ある日突然、赤ん坊を押しつけられた母が、どれほど困惑したものかと、優美は申し訳ない気持ちで胸が締めつけられた。  淡々と懐かしむ母に感謝の気持ちが湧いてきたが、「ありがとう」の一言で済むような、軽い話じゃない。優美は言葉を呑み、母の話に耳を傾けた。 「……もう無我夢中で、この子を生かさなきゃって、それだけで、大変とか思う前に、この子にはわたししか居ないんだって、必死だったわ……」 「でもお母さん、仕事してたんでしょ?」 「もうね、仕事どころじゃないのよ。今みたいに、育児休暇とか無い時代だったし」 「それで、仕事辞めたんだよね……」 「そうねぇ……。そのころちょうど、アグネス論争が社会問題になっててね」 「アグネス? あのアグネス・チャン?」 「そう。たしか、アグネスチャンが一人目を産んで、楽屋にも赤ちゃん連れて来てたのよ」 「うん、それで?」 「それが、職場に赤ちゃん連れて来るなんて、とんでもないって、連日叩かれて」 「え? ワイドショーとかで?」 「そうよ。テレビとか週刊誌で。騒ぎが大きくなって、たしか、アメリカのタイムって雑誌でも特集されたのよ」 「えーっ? 海外でも!」 「そう。それでアグネスチャンはたしか、その記事がきっかけでアメリカの大学から招待されて、日本の仕事をやめて、大学院までいったの」 「……知らなかった……。それで?」 「男女格差の社会問題をテーマに論文書いて、たしか博士号とったと思うわ」 「すごい……」 「でもお母さん、詳しいね」 「わたしはアグネス応援してたから」  母は、子育てと仕事を両立するアグネスを自分と重ねて、もしかすると、仕事を続けるアグネスを、羨ましいと思っていたのかもしれない。自分のせいで、ある日急に母になった。 いったいどんな気持ちだったのか。 優美は、申し訳ない気持ちで一杯だった。 「……わたしのせいでお母さん……」 「優美。優美のせいでとか思ったこと、一度もないのよ。こんな可愛い贈り物って、あなたがどれだけ生きるエネルギーになったか……」 「お母さん……」 「和正(かずまさ)さんも理解があって、ほんと恵まれてるの、お母さんは」 「そうだよね。お父さんの協力もないと、出来ないもんね」 そうねと母が、窓際の仏壇に目をやる。  優美は仏壇まで歩み寄り、久しぶりに父の遺影に手を合わせた。  父の和正は工場のラインで働いていて、日勤と夜勤を繰り返していた。高卒の父の給料は安く、優美が保育園に入るまでは、芳枝は内職をしていた。優美が幼稚園、小学校へと進級すると、芳枝はパートをはじめ、学費や生活費を補っていた。  記憶を辿る母の波長につられたように、優美も小中学生時代のことを思い出していた。  家計は苦しかったはずなのに、優美は塾や英会話をずっと習っていた。  まだ小学校三年生くらいのとき、母に連れられて、子ども英語塾を見学したことがあった。優美が「わたしも行きたい!」というと、母はその日に申し込みをして、翌週から優美は英語塾に通いだした。 「お母さん……わたしの英語教室の月謝って、お母さんが出してたの?」 「え? ああ、なんでそんなこと聞くの?」 「だって、ウチお金なかったでしょ?」 「それは、優美が、やりたい! って言ったし、なんとなく、これからは英語くらい出来ないとって、わたしも思ってたから」 「すごいねぇ、先見の明が……」 「そんな、たいしたアレじゃないのよ……」  母は優美のことが無ければ、きっと仕事を続けていたのだろう。これからの国際社会には英語力が必要なことも予見していて、英語力を身につけていたに違いない。  優美がいま英語がネイティブなのも、元を辿れば母のお陰だった。  優美は、自分を預かる前の母は、どんな夢を描いていたんだろうと興味を持った。 ただ訊いたところで、「わたしのことはいいのよ」と、はぐらかされる。 母はそういう人だった。  気がつけば深夜十二時を過ぎていた。遅い風呂を済ませた優美は、おそらく小学校以来ひさしぶりに、母の隣に布団をならべて眠った。
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