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十
自分の親が本当の親じゃないなどと思ったことは、一度もなかった。
まだ幼いころに、親から酷く叱られて、自分は拾われたんじゃないかって、真剣に悩んでいる友達がいた。
妹だけが可愛がられていると思い、自分は捨て子かもって、交換日記に書いてきた友達もいた。そんな、すっかり忘れていた小学生時代のことを、優美は突然思い出した。
加湿器から「ピーッピーッ」と音が鳴り、優美は我にかえった。給水しようと優美は、加湿器に足を向ける。腰をかがめ、給水タンクを抜き出したとき、台所の柱に引かれた線に目がいった。
ところどころ薄く、横線が引いてある。
母が年に一度、優美を柱の前に立たせて、鉛筆で印をつけていた跡だった。
優美は柱の前でしゃがみ込み、下から順に指でなぞり、たしかめていった。
「なにしてるの?」母が不思議そうに見る。
「……十五、十六……。高一まで、毎年測ってたんだ……」
「ああ、それ……」母が目を細める。
「優美、いまいくつなの? 背は」
「えー? たぶん……百六十三くらいかなぁ……」
「そう……おっきくなったのね」
「えー? なにそれー」思わず笑う。
母もうふふと笑い、「ほんと、おおきくなったわねぇ……」と優美を見上げ、ぽつりぽつりと語り出した。
「遙が、あの子が突然いなくなってからずっと、あなたずっと泣きやまなくって、どうしようかと思ったのよ……」
「どっか具合でも悪いんじゃないかって、お医者にかけこんだら、えらく怒られてね。オムツが汚れてるって」
「お乳も出ないのにオッパイあたえたり、そしたら火がついたように泣き出して。バカよねぇ……」
母は懐かしげに微笑んでいるが、ある日突然、赤ん坊を押しつけられた母が、どれほど困惑したものかと、優美は申し訳ない気持ちで胸が締めつけられた。
淡々と懐かしむ母に感謝の気持ちが湧いてきたが、「ありがとう」の一言で済むような、軽い話じゃない。優美は言葉を呑み、母の話に耳を傾けた。
「……もう無我夢中で、この子を生かさなきゃって、それだけで、大変とか思う前に、この子にはわたししか居ないんだって、必死だったわ……」
「でもお母さん、仕事してたんでしょ?」
「もうね、仕事どころじゃないのよ。今みたいに、育児休暇とか無い時代だったし」
「それで、仕事辞めたんだよね……」
「そうねぇ……。そのころちょうど、アグネス論争が社会問題になっててね」
「アグネス? あのアグネス・チャン?」
「そう。たしか、アグネスチャンが一人目を産んで、楽屋にも赤ちゃん連れて来てたのよ」
「うん、それで?」
「それが、職場に赤ちゃん連れて来るなんて、とんでもないって、連日叩かれて」
「え? ワイドショーとかで?」
「そうよ。テレビとか週刊誌で。騒ぎが大きくなって、たしか、アメリカのタイムって雑誌でも特集されたのよ」
「えーっ? 海外でも!」
「そう。それでアグネスチャンはたしか、その記事がきっかけでアメリカの大学から招待されて、日本の仕事をやめて、大学院までいったの」
「……知らなかった……。それで?」
「男女格差の社会問題をテーマに論文書いて、たしか博士号とったと思うわ」
「すごい……」
「でもお母さん、詳しいね」
「わたしはアグネス応援してたから」
母は、子育てと仕事を両立するアグネスを自分と重ねて、もしかすると、仕事を続けるアグネスを、羨ましいと思っていたのかもしれない。自分のせいで、ある日急に母になった。
いったいどんな気持ちだったのか。
優美は、申し訳ない気持ちで一杯だった。
「……わたしのせいでお母さん……」
「優美。優美のせいでとか思ったこと、一度もないのよ。こんな可愛い贈り物って、あなたがどれだけ生きるエネルギーになったか……」
「お母さん……」
「和正さんも理解があって、ほんと恵まれてるの、お母さんは」
「そうだよね。お父さんの協力もないと、出来ないもんね」
そうねと母が、窓際の仏壇に目をやる。
優美は仏壇まで歩み寄り、久しぶりに父の遺影に手を合わせた。
父の和正は工場のラインで働いていて、日勤と夜勤を繰り返していた。高卒の父の給料は安く、優美が保育園に入るまでは、芳枝は内職をしていた。優美が幼稚園、小学校へと進級すると、芳枝はパートをはじめ、学費や生活費を補っていた。
記憶を辿る母の波長につられたように、優美も小中学生時代のことを思い出していた。
家計は苦しかったはずなのに、優美は塾や英会話をずっと習っていた。
まだ小学校三年生くらいのとき、母に連れられて、子ども英語塾を見学したことがあった。優美が「わたしも行きたい!」というと、母はその日に申し込みをして、翌週から優美は英語塾に通いだした。
「お母さん……わたしの英語教室の月謝って、お母さんが出してたの?」
「え? ああ、なんでそんなこと聞くの?」
「だって、ウチお金なかったでしょ?」
「それは、優美が、やりたい! って言ったし、なんとなく、これからは英語くらい出来ないとって、わたしも思ってたから」
「すごいねぇ、先見の明が……」
「そんな、たいしたアレじゃないのよ……」
母は優美のことが無ければ、きっと仕事を続けていたのだろう。これからの国際社会には英語力が必要なことも予見していて、英語力を身につけていたに違いない。
優美がいま英語がネイティブなのも、元を辿れば母のお陰だった。
優美は、自分を預かる前の母は、どんな夢を描いていたんだろうと興味を持った。
ただ訊いたところで、「わたしのことはいいのよ」と、はぐらかされる。
母はそういう人だった。
気がつけば深夜十二時を過ぎていた。遅い風呂を済ませた優美は、おそらく小学校以来ひさしぶりに、母の隣に布団をならべて眠った。
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