8人が本棚に入れています
本棚に追加
十一
二週間後、優美は健太を、銀座のカフェレストランに呼び出した。しばらく優美と連絡がつかなかった健太は、会うなり詫びを入れた。
「本当にごめん。母にはちゃんと話すから」
「うん……」
「でも、もういいの」
「え? いいって……?」
「別れましょ」
「え? ちょっと、優美……」
「わたし、家庭に収まるつもりないし、健太の家とは合わないと思う」
「いやだから、ちゃんと話すから」
優美は無言で首を横に振る。気持ちが揺るがないことの意思表示だ。
「健太には……あなたの家には、もっと収まりがいい人がいるよ。わたしじゃなくて」
「いや、待ってよ。一方的に……」
「ごめんね……勝手だよね。でも……わたしが窮屈な気持ちでずっといて、幸せじゃなかったら、健太のことも幸せに出来ない」
「だから——」
「あと、わたし全然グルメじゃないし、ワインも詳しくないし、肩凝るような食事、全然美味しくないんだ。健太に合わせて、無理してただけなの。そんな芝居、これから何十年も続けられっこないよ」
一気に気持ちを吐き出して、優美はスッキリした。顔合わせの前の晩から緊張して、そのイライラを母にぶつけていたことも、最近になって気づいた。母に甘えていたのだ。
「優美……」
健太の口からは、引き止める言葉は出てこなかった。
ごめんなさいと優美は丁寧に頭を下げ、レストランを後にした。
店の外に出ると、自分で決めたことなのに、涙が流れてきた。
健太は悪くないし、優しくしてくれて感謝もしている。だけど、自分を偽って生きて行くつもりはなかった。
優美が皇居前に着くと、お堀の水面が陽光を照り返し、きらきらと眩しい。
その光のなかに、母の痩せた背中が佇んでいた。
優美は子どものように忍足で背後に近寄り、わっと驚かせる。
もう驚かさないでと、母の困ったような顔を見て、優美は声を出して笑った。
楽しげな母と娘の目の前を、風に乗ったモンシロチョウがひらひらと舞う。
「見てお母さん、チョウチョ」
「あら、きれいねー」
「ねー、きれいだね」
二人が口をまぁるく開けたまま、モンシロチョウが太陽の光に消えるまで、ずっと見上げていると、春風が優美の頬の涙を、やさしく撫でていった。
— おしまい —
最初のコメントを投稿しよう!