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六
叔母の遙は、寿司屋の個室を予約していた。料亭のような佇まいの店で、品書きに『細魚時価』と書いてある。細魚は、春先が旬の高級魚だ。
「遙さん、お寿司屋さんなんて珍しいね」
二年ほど前に自由が丘で会ったときは、遙の会社が経営するイタリアンレストランだった。
「そうねぇ……ときどき無性に、ここのお寿司、食べたくなるのよ」
「へぇー、そうなんだぁ」
「わたし、フランスに住んでたころ、ずっとお寿司が食べたくってね。それで、帰国してすぐにこのお店で食べたお寿司が、それはもう美味しくって」
「そうだったんだ」
「今の大将は、そのころは見習いだったけど、立派に暖簾を引き継いで」
「じゃあ、遙さんも大将も、駆け出しの頃から一緒に成長してきたんですね」
「そうそう」
遙は昔を懐かしむように目を細めた。
叔母の山邑遙は、およそ三十年前に、自由が丘で化粧品の輸入業を始めた。
Diorなどの高級品ではなく、フランス製ながら、OLの給料でも手が届くくらいのコスメだ。
はじめは自由が丘デパートに三坪の店を構えた。畳六畳ほどの、駄菓子屋みたいな小さな店だった。
それが、女性の社会進出が増えるにしたがって遙の事業も拡大し、今では生活用品全般のセレクトショップや、ベジタリアン・ビーガン専門のカフェレストランなど、手広く経営している。ビジネス誌のインタビューにもたまに登場する、優美憧れの女性だ。
女性が女性らしく、美しくしなやかにあることを応援しているだけあって、遙も六十歳には見えない、若々しく美しい女性だ。
寿司にも合うというピノ・ノワール種の赤ワインで乾杯すると、遙は「優美ちゃん、婚約おめでとう!」と微笑んだ。
「あ、ありがとう……」
「姉さんから聞いたわよ。昨日、両家の顔合わせだったんでしょ?」
「ああ、それで遙さんもわたしに連絡しようって……」
「そうよー! ね、写真見せてよ、彼氏の」
「えー? 前と変わってないよぉ」
言いながら優美はスマホを開く。
「やっぱりイケメンよねぇ。しかも御曹司でしょ? わたしがあと三十歳若かったら……」
「えー? イケメンかなぁ? あとわたし、玉の輿狙いじゃないからね!」
「わかってるわよ! 冗談よ!」
「そーいえば遙さんて、結婚考えた男性いなかったんですか?」
「え?……なに、やぶからぼうに……」
「だって、絶対モテるでしょう。わたしが男ならほっとかないもん!」
「それが、ほっとかれるんだなぁ。井森美幸と一緒よ」
「え? 井森美幸? タレントの?」
「そう。まだ誰のものでもない、ってアイドルでデビューして、そのまま五十歳」
「えー、なにそれ! 遙さん可笑しー」
「ハハッ。あの美人で空気読める井森美幸が独身なんだもの。わたしなんてムリムリ」
優美は、昨日の憂鬱な気分がウソみたいに、声を上げて笑った。仕事も出来て会話も上手い遙とは、まるで女友達のように気兼ねなく話がはずむ。
—— 遙さんに会って本当に良かった……
優美は心からそう思った。
ところが三時間後、優美は泣きながら、店を飛び出していた。
個室に一人残った遙も、沈鬱な顔で目を潤ませていた——
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