1人が本棚に入れています
本棚に追加
序幕 少女と羽音
慌てて開けたドアの向こうには、青い世界が待っていた。
青い、薄青い……仄白く光って青い。そんな幻想的ながらも少し怖い色彩に、あたしの視界は覆われていた。
一面に咲く花のせいだ。群生した低木にびっしりとついた花々は、大窓から差す月光を受けて闇の中に浮かびあがっている。深くて静かな海をたゆたうクラゲを思わせる見目だった。けれどもちろん、陸の上に育つ植物が海洋生物であるはずはない。
咲き乱れているのは、ツツジの花だった。
ウロツツジという名前の、この場所――あたしの家のグラスハウスにだけ存在しているらしい固有種。
そう、以前あたしに教えてくれたのはママだ。ほら百花ちゃん、真っ青で綺麗なお花でしょう? 歴代の女主人が育てていた特別なお花なんですって、と。
あれから一年、十歳になったあたしが新たに教わったのは『孤軍奮闘』だ。
だって昼から姿を消したママを捜して、あたしはひとり家じゅうを走り回っていたのだ。うちは古くて大きな洋館に母娘で暮らしていて、ほかにはお手伝いさんもいない。つまり彼女がいなくなると、頼れる大人も皆無になってしまう。
数だけはあるほこりっぽい空き部屋にも、幽霊が出そうで不気味な屋根裏にも、あたしは必死に足を運んだ。早くママをみつけなきゃ、と焦っていた。ゆうべ、東京にいるパパと電話で口論した彼女が、受話器を勢いよく置いたあとすすり泣いていたからだ。部屋の前を通りかかったあたしは、ぐうぜんそれを立ち聞きしてしまった。
「ママ! ねえママ、いるの? もう遅いしお部屋に戻ろう?」
戸口脇のスイッチをさぐるのすらもどかしく、あたしは照明をつけないままで青い世界へと踏み込んだ。
室内は、むかし通っていた小学校の体育館ほどの広さだろうか。見晴らしはいいのだけど、大人の腰くらい高さがある茂みに邪魔されて奥のほうは見えづらい。石畳が敷かれた通路をずんずんと進みながら、あたしは首をめぐらせた。
じつは、昼にもやってきていて収穫のなかった場所だ。念のためにもう一度、とたいした確信もなくやってきたあたしの耳を、ふいにかすめる音があった。ブウン、という低いうなりだ。この音は知っている、と瞬時に思った。グラスハウスを訪れるたびに接していた、聞き慣れた音。
ブウン、ブン、ブウウウン……。
羽音だった。何匹、何十匹もの虫が、飛行にあたり羽で空気をふるわせる音。
その虫の姿も、あたしは反射的に思い出していた。小さくて、楕円の胴体は黄色と黒の縞柄で……先に針を備えている。
蜂だ。
野生ではなく、ここで飼育されている蜜蜂。人工の巣箱を与えられ、青いツツジの花からミツを吸い、快適ながらも限られた自由しか知らずに短い一生を終える。
とたんに、ぞわっと悪寒が背筋を走った。それこそ虫の知らせというやつではなかろうか。理由なんて分からなかったけれど、あたしは猛烈な不安に襲われた。ママはどうしているの、と思った。
「ママ、ちょっとママ! 返事してったら!」
叫んで、歩を繰り出すたびに茂みの枝に服を引っかかれた。
あたしの格好は小紋の着物だった。普段着の和服ではあるものの、やっぱり洋服に比べたら袖も裾も長く動きづらい。これで半日走り回ったのだから誉めてほしい、と威張りたいわけじゃなく、裾さばきの悪さへの苛立ちまぎれに過去の言動を後悔しただけだ。
一年前、ママがパパとの別居を決意したとき――。
あたしはもっと反対するべきだった。パパの浮気なんて珍しくもないじゃない、いやならきちんと話し合いなよ、と説得しなくちゃいけなかった。ママが住みたいところに住めばいいよ、あたしもついていってあげるからさ、なんて安易に同情の言葉をかけてはいけなかった。
少なくとも、この時代がかった家や生活様式に染まるのだけは止めるべきだった。
ママが心を病み始めたのは、あきらかに『蜜蜂邸の女王』になってからだ。
「ねえお願い、ほんとに出てきて……!」
ブウン、ブウウウン……。
羽音が聞こえる。ガサッと着物の裾がまた茂みの枝に引っかかれる。
ウロツツジの花の上を飛ぶ虫が、ひっきりなしに視界を横切っている。空中に弧を描く蜜蜂たち……もののついでに言及するならすべてがメスの働き蜂たち。その数が次第に増えていく。狂ったように、なにかを訴えるように、彼女たちは飛び交い続ける。
たぶん、戸口をくぐってからは一分程度しか歩いていなかったろう。なのにあたしには、十分も、二十分も、ひた走ってきたように感じられた。
疾走のはてに、自分以外の人間の姿が見えた。地面にうつぶせで倒れている姿が。
「ママっ!」
叫んで、駆け寄る。グラスハウスの中央へと。
出入口から伸びた通路が連なるそこは、空きスペースになっていてガーデンテーブルのセットが置かれている。ママとおぼしき人間がいたのは、ひとつだけ引かれたチェアの横だった。
けれど現場についたあたしは、息を呑み立ち尽くしてしまった。
嘘、なんで? 蜜蜂が……。
ブウン、ブウウウン。空中だけじゃなく足元からも、盛大に羽音が聞こえてきた。
それもとうぜんの結果であって、横たわっている体には無数の蜜蜂が群がっていたのだ。砂糖を求めるアリのように――死体に魅せられたハエのように。
「きゃあっ? やだ、消えてっ! さっさとどこかに行っちゃってよっ!」
うすら寒い光景に恐怖して、あたしは追い払おうと手を振り回した。不服そうに羽をうならせながら、蜜蜂たちが遠ざかる。完全に無音とはならなかったものの、ようやくひと息ついたあたしは月明かりのもと検分を再開させた。
倒れていたのはママだった。状況は予想より不穏だったけれど。
普段は几帳面に結われているママの長い髪は、いまやほどけてしまっていて持ち主の横顔を覆い隠している。身につけている付け下げの着物も、袖や裾の乱れがひどい。乏しい光を頼りによく見れば、それらに粘度のある液体がわずかに付着している事実にも気づいた。ウロツツジの花とはあきらかに違う、濃密で甘い香りがただよってくる。
これは、まさか――。
あたしはテーブルを振り返った。
見ひらいた両目に、横倒しになったティーカップと小さな瓶が飛び込んでくる。双方から流れ出た中身は、卓上に水たまりを作っていた。
小瓶の中身の色は、ろくに見えずとも把握できた。おそらくは淡い金色のはずだ。母屋でも、グラスハウスでも、あの遮光瓶をママが手にしているのを何度も見てきたあたしには分かっていた。
百花ちゃん、これはよく眠れるおまじないよ。
ママの声がよみがえる。
蜜蜂たちが女王のために、一生をかけて集めてくれたものなの。素敵な夢をみせてくれるわ……パパのことも、もといた町のことも、思い出さずに済むくらい。
「違うわママ、それがみせてくれるのは素敵な夢なんかじゃない。悪夢よっ!」
ハチミツ。
真っ青なウロツツジから集められた、淡い金色の花蜜。遮光瓶に差し込んだスプーンですくいあげ、お気に入りの紅茶にたらしていたママ。カップの水面がぐるぐると渦を描くたび、たちのぼっていた甘い芳香――。
脳裏をよぎる記憶に耐えきれず、あたしは怒声を放っていた。
その声に反応して、ブブブ、と蜜蜂たちが興奮を示す。ブブブ、ブブブブブ。なにやら急かされたように感じて、あたしはママを介抱するべく傍らにしゃがみ込んだ。
素人探偵の見立てとしては、『よく眠れて』『素敵な夢をみせてくれる』ハチミツを飲んだママは気絶している最中なのだろう。
彼女が酩酊のあげく眠りに落ちることは前にもあったので、あたしはいつまでも怯えていなかった。まったくひと騒がせなんだから、毛布を運んできてかけたらいいのかしら、と冷静に段取りを考え始めたほどだった。
でも、つぎの瞬間。
「無駄だ。あきらめろ」
えっ……。
男の声が聞こえてきて、ぎょっとした。
この家にはあたしたち母娘以外いない、まして男なんて、と思ったのだ。
東京のパパが妻を心配して訪ねてきたというならべつだけれど、そんな安易な話があるわけもなかった。声の主はパパより若いとすぐ分かったし、響きの調子も身内特有の親密さが皆無だ。徹底的に、低く冷たい。
やだ、泥棒とか?
硬質な靴音が近づいてくる。あたしが来た石畳敷きの通路を来る音だ。
視線をあげると、一メートルほど離れて立ち止まる闖入者の姿が見えた。いつのまに忍び込んでいたのだろう……あたしが蜜蜂やママに気を取られている隙にだろうか。グラスハウスのドアを施錠してこなかったのを、あたしはめいっぱい後悔した。
「か、か、か、金目のものなんか、ここにはないわよっ!」
「知っている。物盗りなら母屋のほうを狙うだろう」
動揺で噛みまくるあたしに、相変わらず冷たく男が返す。不審を露わにされたというのに、彼が機嫌をそこねた様子はなかった。
予想を裏切らず、男は二十代なかばほどの若さだった。背は高く痩せていて、羽織った長いコートの前は開いている。暗くてよく見えなかったけれど、中に着ている服はずいぶん古いもののようだった。型も、現代人の感覚からすると違和感がある。社会の教科書に載っていたモノクロ写真の、むかしの日本兵の服みたいだ。
顔立ちは整っている……ほうかもしれない。ただ、正当派の美形じゃなく、ワイルド系だという補足つきだ。ヤクザの下っ端集団にまぎれていたら、すごくなじむ顔だと思う。
あれ、待って。いまはそんなことよりも――。
「そうよ、ママ! あんたなんなの、いきなり来て縁起でもない話しないでよっ! まだあったかいし脈もあるじゃないっ!」
あきらめろ。
ママを介抱しようとしたあたしに、男が放った言葉が思い出された。念のため指でママの頬や首筋に触れてみたものの、いつもの『眠っているだけ』の状態と変わらない。だから癇癪を起こしてみせると、小さくかぶりを振った彼に返された。
「じきに死ぬ。だから俺はおまえに呼ばれたんだ」
「呼ぶ……? あ、あたし、あんたなんか知らないんだけどっ?」
「おまえの母親もそう言った。その前の女たちも。ここのウロツツジを育て、蜜蜂たちを率いるようになるまで、一部の例外をのぞいて俺とは接触できない」
分からない。説明になってない。
あたしは口元をひきつらせる。一度にいろいろ起き過ぎていて、事態の整理だけでもひと苦労だった。
そんな愚鈍な小娘に呆れたように、男はフッと鼻で笑った。失礼しちゃう、とあたしは思ったけれど、直後に予想外の行動を取られたせいで苛立ち自体がふっ飛んでしまった。あたしのそばまで歩み寄り、いきなり片膝をついた男は強面をやわらげて言ったのだ。
「俺は『巣守り』。蜜蜂邸の新たな女王――百花、おまえに仕える者だ」
最初のコメントを投稿しよう!