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病に倒れて長い劉備の部屋には、香の香りに混ざって独特な臭いが立ち込めていた。
「近う」
亮姫は劉備の言葉に、劉備の床の傍に跪いた。劉備は痩せた手を人払いをするように軽く振った。部屋に二人きりになり、亮姫は跪いていた顔を上げて、劉備を見た。劉備は僅かに開けた目で亮姫を見やった。
「亮。いや、亮姫と呼ぶべきか」
亮姫は絶句した。自分が女であることは妻の月英以外には知られていないはずだった。肩を震わせた亮姫を劉備は哀れむように見ていた。
「亮姫は幸せだったか? 美しい着物も着れず、紅も引けず……」
亮姫は黙したままどう答えていいか分からずにいた。劉備は口を震わせた。笑ったのかもしれない。
「初めてそなたに会った時。そう、そなたの手を取り、礼を言った時にもしやと思ってな。月英に確かめたのだ」
亮姫は軽く唇を噛んだ。月英からは聞いていなかったことだ。
「いつも思っていた。そなたはこれでいいのかと。女としての人生を捨て、私のような無能な者に仕えて……」
劉備の顔はしわだらけで、乾いた白髪も数少ない。掠れた声で言葉を喋るたびに空気の抜ける音がした。しかし、目だけは潤んで輝いていた。瞳に宿る光は澄んでいて、若き日の面影が残っていた。
「すまぬ。そう思うてもそなたの力が必要で自由にしてやれなかった。だが、そなたの才を十分に活かすことができたか、それすらも分からぬ」
亮姫は頭を振った。
「そのようなこと……! 玄徳様ほど私を理解して下さった方はおりませぬ。貴方様の下でだからこそ私は微力ながら力を振るえたのでございます」
「そう言ってくれるか」
劉備は目を閉じて緩やかに息を吐いた。亮姫は劉備の次の言葉を待った。劉備はしばらく黙っていた。
「亮」
先程とは違うしっかりした声音で呼ばれ、亮姫は劉備を見つめる目に力を込めた。
「私はそなたにまた酷なことを言おうとしている」
劉備の目は真っ直ぐ天井に向けられていた。
「私は酷い人間だ。……いや、もう言い訳はすまい」
劉備は亮姫を見た。その目からいく筋かの涙が溢れていた。
「劉禅を頼む。あれがそなたの目に叶う者であるならば支えて欲しい。才がないのなら、そなたがこの蜀を治めてくれ。そなたにはそれだけの力がある。すまぬ。私は蜀の民のためにそなたの人生を犠牲にしようとしている」
亮姫の目からも涙が溢れた。
「いいえ。いいえ。勿体ない仰せにございます」
頭を垂れた亮姫に劉備は顔を歪めて、そして、苦しげに、
「亮姫、やめてくれ。違うのじゃ」
と言った。亮姫は慌てる。
「無理をなされるとお体に触ります。続きは少しお休みになってからでも遅くはありますまい」
「苦しいのではない。
そなたは分かっておらぬ。この私を。私はそなたの思っているような人間ではないのだ」
亮姫は訳が分からない。劉備には哀しみにを宿した目で亮姫を真っ直ぐに見つめた。
「すまぬ。私はそなたの気持ちに気付いていた。しかし応えることはできなかった。許せ。私は一人の人間の愛し方を知らぬのかもしれない。なのに、そなたには頼み事ばかりを」
劉備の目からはまた涙が溢れた。亮姫は顔を伏せた。その肩が震えていた。
「そのようなこと……。玄徳様は何も悪くはございませぬ。この私めが畏れ多い想いを抱いてしまったことこそが罪にございます」
「愛することが罪と申すか」
「私のせいで玄徳様がお苦しみになっていたとも露知らず。私は、もう消えてしまいたい」
劉備は枯れ木のような腕を亮姫に伸ばすと、亮姫の頭をぎこちなくなでた。
「面を上げよ。そなたは悪くない。
すまぬ。もう何も言うまい。これからは好きなように生きるが良い。幸せになれ」
亮姫はゆっくり顔を上げた。涙でぬれた目で劉備を見る。
「分かりました。私の幸せは玄徳様の幸せ。私は劉禅様を支え蜀を守ってみせまする」
劉備は亮姫の目をじっと見た。一瞬の沈黙。劉備は複雑な微笑みを浮かべた。
「そうか。すまぬな……」
劉備はゆっくりと目を閉じた。そして、亮姫の手を一度強く握った。
「そなたを一人にするのは忍びないが……」
私はもう疲れてしまった。亮姫は声無き劉備の声を聞いたような気がした。
「玄徳……様……」
亮姫は劉備の手を自分の頬に当てた。あの大きな手が今はこんなにも細く頼りない手になってしまった。
この人はやっと解放されるのだ。そう思っても涙が溢れた。
劉備は関羽を亡くし、張飛も亡くし、それでも蜀のために生きてきた。何も二人までの扱いを望んだりはしない。でも、二人が亡くなった今、亮姫は自分も見て欲しいと、自分のためにも生きて欲しいと思わずにはいられなかった。
『お願いです。私を置いて行かないで。まだまだ生きて下さい。私のためにも生きて下さい』
亮姫はずっと言いたかった言葉を呑んだ。
「お疲れ様でした……」
その後劉備は目を覚ますことはなかった。
了
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