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座敷へ一歩踏み込んだ瞬間、そこにいた妻と目が合ってしまった。
妻は表情も変えないままに、じっとこちらを見ているが、わたしとて今日という今日は退く気がない。
退く気がないのだが──
妻に面と向かった途端に、どういう訳か、またしてもわたしの声が出てこなくなってしまったのだ。
それは3倍返しに対する怯えとも少し違うようで、何と言うか、自分が何を言おうとしたのかわからなくなってしまった感じ。
さらに別の言い方をすれば、自分が言いたかった妻への文句など、みるみるうちに雲散霧消し、どうでも良くなってしまったような感じ。
妻は大好きな沢山の花に囲まれ、少女のように笑っていた。
今更になって、女らしい可憐な部分を思い起こさせられるのは、わたしにとって盛大なるカウンターである。
悔しいから、せめてもの反撃のつもりで、供えてあった栗大福を1つくすめ盗ってやった。
妻の大好物だったそれを、これ見よがしに頬張ってみせても、彼女はらしくもなく、黙って微笑み続けるばかり。
そしてこれもまた妻からのしっぺ返しなのか、甘いはずの大福が、何故かいつもよりしょっぱく感じている。
最後の最後まで、妻に何も言えない亭主とは、なんとも情けないものではないか。
そんなことでは男がすたると、わたしは、せめてもう1つの言えなかった言葉を、滲んでいくその笑顔に、そっと投げかけたのだった。
「華耶……
今まで、ありがとうな…………」
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